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zoom RSS 『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(6)

<<   作成日時 : 2009/10/21 00:14   >>

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 『聖絵』と同様に資料価値があるとされている伝記絵巻に、『遊行上人縁起絵』(以下、『縁起絵』)がある。全十巻四十三段で、前半の四巻までが一遍の伝記、後半の五巻から十巻までが真教の伝記となっている。原本は現存せず、鎌倉時代から江戸時代の模写本が二十数本残っているだけである。
 それら模写本の詞書から、『縁起絵』作者は平宗俊(真光寺本)あるいは池刑部大輔(金蓮寺本)とされている(13)。この平宗俊を北条一族の淡河氏と推測する学説もあるが(14)、北条系図に宗俊は見えない。真教と縁があり、平氏で諱字「俊」を使用する人物ということから、真教に帰依した淡河殿の夫北条時俊(時房流)の末子であろうと推測したものだ。やはり金蓮寺本で池刑部大輔としていることを排除してはならないだろう。自らの学説に不利な資料を排除しては実証的研究とはいえない。
 まず『縁起絵』制作者を平宗俊とする資料と池刑部大輔とする資料があれば、両者を同一人物とする前提から出発する必要がある。その前提から出発する限り、宗俊を北条氏とする推測は成り立たない。そこで、あらためて『尊卑分脈』に注目すれば、平宗俊を桓武平氏高棟流に見つけることができる。六波羅評定衆の佐分利加賀守親清の子息、刑部権大輔平宗俊である。真光寺本と氏名「平宗俊」が一致するだけではなく、金蓮寺本とは官職「刑部(権)大輔」が一致する。
 宗俊の父親清は、『若狭国守護職次第』北条重時の項に「守護御代加賀守殿自延応元年拝領之」とあるように、六波羅探題で若狭守護を兼職した北条重時の若狭守護代を勤め、また六波羅評定衆にも列した人物である(15)。高棟流桓武平氏は、太政官の事務局である弁官(左右大弁・中弁・少弁)を経て納言に昇進する「名家」の家柄であり、その一族が吏僚官僚として北条氏の被官になることは十分に考えられる。
 しかし宗俊は六波羅評定衆に列した形跡がない。金蓮寺本にある「池刑部大輔」の名乗りに注目すれば、同じく桓武平氏であり、鎌倉殿伺候の公家衆であった池流平氏の名跡を継承したと考えられる。池家は平清盛の弟池大納言頼盛の子孫であり、頼盛の母池禅尼が源頼朝の助命を清盛に嘆願したことから、平氏一門の都落ちには同行せず、鎌倉幕府に出仕する公家のひとりになった。鎌倉末期には池顕盛の養子佐々木万寿丸(朽木経氏)が池河内家の所領丹後国加佐郡与保呂村を継承しており(『朽木古文書』第一二軸甲一〇号)、宗俊も池家のいずれかの所領を継承して「池刑部大輔」と名乗ったと考えられる。
 ところで『縁起絵』によれば、正応六年(一二九三)頃に「越後国池のなにがしとかやいふ人」が、真教に帰依している。真教に帰依した人物であれば、『縁起絵』作者にふさわしい。『縁起絵』作者池宗俊を、この越後池氏の人物と考えることもできる(16)。しかし越後池氏は、正応五年九月十八日付関東下知状(高橋文書)で「一之宮神官池宮内大夫」と記されているように越後国一宮の神官であり、公家衆である池流平氏の人物ではなく、古代豪族の高志池君の子孫と考えられる。平頼盛に還付された没官領三四か所を見ても、越後に池家の所領はない。もちろん、後に越後に所領を得たとも考えられる。佐々木万寿丸に譲渡された丹後国加佐郡与保呂村も、平頼盛の没官領三四か所のうちに含まれていないからである。しかし越後池氏は越後国一宮の神官であり、越後池氏と池流平氏はやはり別流と考えられる。
 また平宗俊の官が刑部権大輔であり、越後池氏の池頼章が宮内大夫、池頼定が中務大夫(17)であることも両者の家格の差を示している。八省(中務・式部・治部・民部・兵部・大蔵・刑部・宮内)の上級次官である大輔は、正五位相当で公達や諸大夫が補任される官職だが、大夫とある場合は大輔のことではない。八省の判官(三等官)である丞(六位相当)が年功で従五位下に叙爵されながらも補任されるべき官をもたない散位のとき、前職の官名に大夫をつけて名乗りとする。宮内丞で叙爵された者は宮内大夫、中務丞で叙爵された者は中務大夫、左衛門尉で叙爵された者は左衛門大夫である。宮内大夫・中務大夫を名乗る越後池氏は、従五位下を極位とする侍身分であり、池流平氏ではなく地方豪族と考えるのが妥当だろう。近江佐々木荘の場合でも、領家・預所両職と地頭職を兼ねた総管領は宇多源氏であったが、氏神の沙沙貴神社神職は古代豪族佐々貴山公の子孫紀氏(木村氏)で従五位下権守(権大夫)を極官とした。どちらも佐々木氏を名乗るが別流である。
 刑部権大輔である平宗俊には昇殿の記事がなく、殿上人ではないようだが、晩年に年功により叙爵される侍身分よりも上位であり、四位・五位の官職を歴任する諸大夫といえる。越後池氏とは別流で、池流平氏を継承したと考えるのが妥当だろう。『縁起絵』の「越後国池のなにがしとかやいふ人」という表現も、作者平宗俊と越後池氏が別流であることを示していよう。
 宗俊が養子となった池流平氏と久我家の関係に注目するならば、池家の所領は久我家に相伝され、山城国久我荘を除く根本所領を失っていた久我家の中心的な所領群を形成していた(18)。『聖絵』後援者久我家と『縁起絵』作者池宗俊はつながっていたのである。
 このように『縁起絵』作者が、池家を継承した刑部権大輔平宗俊と分かったことで、『聖絵』の後援者「一人」が久我通基である可能性がさらに高まったといえよう。『聖絵』『縁起絵』の制作は久我家所領問題と関係があり、久我家が『聖絵』後援者となり、久我家に多くの所領を譲渡した池家の人物が『縁起絵』作者となったことは興味深い。『聖絵』と『縁起絵』は久我家所領問題でつながっていたのである。
 しかも一遍と久我家の関係は、その父や師のときにさかのぼる。土御門通親の猶子(准子)である証空は、一遍の父河野通広の師であり、一遍の師聖達や華台の師でもあった。証空を介して一遍と久我家はつながっていたのである。そして『聖絵』と『縁起絵』の制作で時衆と久我家がつながった。
 このように『聖絵』後援者が久我通基であれば、『聖絵』に西園寺殿の御妹の准后が登場しないことも理解できる。久我家と所領問題で係争していた西園寺家の人びとが『聖絵』に登場しないことは、後援者が久我通基であれば当然であろう。


(1)岡部篤子「歓喜光寺本『一遍聖絵』の制作後援者『一人』について」(『古美術』八五号、一〇一―一一頁、一九八八年)。今井雅晴氏は『一遍辞典』(東京堂出版、一九八九年)の「一遍聖絵」の項で、指標となるべきものと評価している。
(2)岡部前掲論文。
(3)橘俊道・梅谷繁樹編『一遍上人全集』(第一巻、春秋社、二〇〇一年)二七一頁。
(4)『尊経閣文庫』永仁三年三月二十六日後深草法皇譲状(『鎌倉遺文』一八七八六)。および『大覚寺文書』正安二年三月六日後深草法皇譲状(『鎌倉遺文』二〇三八九)。金井静香『中世公家領の研究』思文閣出版、一九九九年、一八一頁参照。
(5)林屋辰三郎「法眼円伊について――一遍聖絵筆者の考証」(『画説』六三、一九四二年)。再録は、同著『中世文化の基調』(東京大学出版会、六四―七九頁、一九五三年)。
(6)橘俊道・梅谷繁樹編『一遍上人全集』(春秋社、二〇〇一年)。『一遍聖絵』の土御門内大臣に関する注では、久我通基としている。土御門定実ではなく久我通基とした理由は記されていないが、この注を契機に、筆者は『一遍聖絵』後援者久我通基説を立てることができた。
(7)五味文彦『「徒然草」の歴史学』朝日選書、一九九七年、九〇―四頁。
(8)久我家根本家領相伝文書案。小川信「久我家文書と久我家領」(『中世の貴族―特別展 重要文化財久我家文書修復完成記念』東京国立博物館、五―三二頁、一九九六年)。
(9)五味文彦『「徒然草」の歴史学』(朝日選書、一九九七年)九四頁。
(10)久我家文書「中院流家領目録草案」。この目録草案は、平安末期の中院入道右大臣源雅定(一〇九四―一一六二)が仁平四年(一一五四)に出家に際して、二人の養子雅通と定房に所領を分割譲与したときに作成されたものであり、雅通の子孫久我家に伝えられた。久我家の家名は、賜姓源氏で始めて太政大臣に補任された源雅実が、山城国久我荘に別荘があったことから久我太政大臣と称されたのに始まり、目録の作成者中院入道雅定は雅実の嫡子である。目録は中院入道雅定から、久我内大臣雅通、土御門内大臣通親、後久我太政大臣通光と久我家代々に伝えられた。中近世の中院家は、久我通光の弟権大納言通方(三条坊門)に始まる久我家の分流であり、一遍と結縁した土御門内大臣通成はこの通方の子息である。
(11)久我家根本家領相伝文書案。『中世の貴族―特別展 重要文化財久我家文書修復完成記念』(東京国立博物館、一九九六年)を参照。
(12)三木紀人校注『徒然草』(講談社学術文庫)の第一九五段「ある人、久我縄手を通りけるに」解説。
(13)今井雅晴『捨聖 一遍』(吉川弘文館、一九九九年)二〇七―八頁。ただし今井氏は、平宗俊を大仏流北条氏の人物とする下田勉氏の説に同調されている。『聖絵』十二巻二段に登場する淡河殿は佐介流北条時俊の妻と見られ(湯山学「他阿上人法語に見える武士」時衆研究六三号)、宗俊はその子息であろうという(下田勉「時衆と淡河氏」時衆研究七五号)。しかし、下田氏は宗俊が淡河北条時俊の一族という証拠を提示していない。管見の限り、大仏流北条氏に宗俊という人物を確認することができない。平氏であり刑部大輔である人物は、『尊卑分脈』を素直に見れば、高棟流平氏の刑部権大輔平宗俊のほかにない。
(14)前掲注。下田勉「時衆と淡河氏」(『時衆研究』七五号、二〇―七頁、一九七八年)。
(15)森幸夫『六波羅探題の研究』(続群書類従研究会、二〇〇五年)六六―七頁。
(16)湯山学「他阿上人法語に見える武士(二)」(『時衆研究』六四号、八―三八頁、一九七五年)「3越後池某」二四―六頁。越後池氏の人物としては、弘安十一年二月十八日付関東下知状(高橋文書)などで越後国福雄庄内の領地をめぐり係争したことが見える池宮内大夫頼章(代官俊章)・中務大夫頼定(代官時直)兄弟、嘉暦三年九月廿四日付鎌倉幕府奉行奉書(『三浦和田文書』)の宛所である池駿河七郎が資料に見え、『太平記』でも南朝方として池氏の活躍が記されている(「先帝崩御」など)。
(17)前掲注。
(18)久我家文書「久我家根本家領相伝文書案」。小川前掲論文「久我家文書と久我家領」(注8)を参照。池大納言平頼盛の嫡子光盛は、その所領を娘たちに譲ることを鎌倉幕府から許され、さらに久我通忠室(久我殿尼御前)とその姉妹から後久我内大臣通基に譲られて、久我家の中心的な所領群となった。これらの所領の譲渡について鎌倉幕府の承認が必要だったのは、それらが平家没官領のうち、源頼朝から頼盛に還付され、知行を認められたものだったからである。光盛の娘たちは所領を久我家に譲ることで、久我家の庇護を得たのである。

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