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zoom RSS 『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(5)

<<   作成日時 : 2009/10/20 00:45   >>

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 久我通光(一一八七―一二四八)は臨終にあたり、遺産のすべてを後妻三条(西蓮)に譲渡したため、先妻の子どもとの間に所領問題が生じた。通光の嫡子右大将通忠(一二一六―一二五〇)は継母三条に対して割譲を求めたが、後嵯峨上皇の院宣によって、通忠には山城国久我荘を認められただけであり、そのほかの所領は三条が相続した。さらに三条は肥後国山本荘・近江国田根荘・伊勢国石榑荘の三か所を娘如月に譲り、如月の没後は中院通成の娘源顕子(今出川一位)に譲るよう譲状を記した。この源顕子は、前述のように西園寺実兼の正妻である。三条・如月母子は久我家との相続争いを有利にするために、西園寺家の庇護を求めたと考えられる。
 当時の西園寺家は、天皇家の外戚として、また関東申次として朝廷内で権勢を振るっていた。所領のうち近江国田根荘は、顕子から子息の西園寺公衡(今出川殿)に譲られて西園寺家領となり、さらに春日大社に寄進された。久我通基の奇行の原因のもうひとつに、この西園寺家との所領争いがあったと考えられる(11)。
 久我通基が『聖絵』の後援者であれば、所領をめぐり係争していた西園寺家の人びとが『聖絵』に登場しないことも理解できる。さらに、西園寺公衡が願主である『春日権現験記絵巻』と『聖絵』の画風が大きく異なることも理解できよう。
 このように見てくると、通基の奇行の原因として、@内大臣・右大将の職を止められたこと、A久我家の根本所領をめぐる係争で敗れたことが挙げられる。『徒然草』でも『北条九代記』でも、通基は久我荘に隠棲している。通基の奇行の原因が所領争いであったことを物語っている。しかし『徒然草』に記された通基の奇行は、奇行とはいっても地蔵を田の水で洗うというものであり、小袖の下着姿で無心に地蔵を洗う姿は美しくさえある(12)。これは異常を来した者の行動というよりも、反骨精神の表れであろう。
 中院通成の没年に久我通基(土御門内大臣)が一遍と歌のやり取りをしたのも、久我通基が中院流の正統であり、中院通成の娘顕子に譲られた中院流(久我家)根本所領の継承権が久我通基にあるという自負からだろう。通基であれば、「一人」と記して名前を隠すことは十分に考えられる。
 実は、後援者「一人」が久我通基であることを裏付ける事実がある。それが、『遊行上人縁起絵』の制作者が平宗俊(池刑部大輔)という事実である。

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