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zoom RSS 『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(4)

<<   作成日時 : 2009/10/19 00:06   >>

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 これまで後援者「一人」を摂関・太政大臣・右大臣に当てはめていたために、特定するに至らなかったのではないだろうか。そこで発想を変えて、「一人」を不定代名詞「ひとり」という意味で「いちにん」と読めば、土御門定実および大炊御門冬輔など、広く一遍に結縁した有力者のなかに後援者をもとめられよう。両者ともに『聖絵』の登場人物の一人である。とくに大炊御門冬輔であれば、絵師円伊に同定されている園城寺の円伊僧正(5)の一門である。また土御門定実であれば、『伏見天皇宸記』正応五年二月二十日条にあるように「才学」の人物であった。しかし冬輔や定実であれば、あえて不定代名詞で記す理由は見つからない。「土御門内大臣」「大炊御門二品禅門」と呼べばいい。
 そこで不定代名詞で記さなければならなかった人物ということで、もういちど登場人物を検討してみると、やはり土御門内大臣(当時大納言)に注目できる。彼は土御門定実ではなく、久我通基(一二四〇―一三〇八)と考えられるからである(6)。久我通基は土御門一門の嫡流に当たる人物で、土御門定実は近衛大将を兼ねなかったが、通基は兼ねた。
 『徒然草』一九六段の「東大寺の神輿」によれば、右近衛大将の久我通基が東大寺神輿の行列の先払いをしたところ、上卿の土御門定実が「神社の前で先払いするのはいかがなものだろう」と言ったが、通基は「近衛の随身の行動は、大将の家の者が承知している」と応えた。のちに通基は、「定実は北山抄を見ているが西宮記を読んでいない。神社の前では神の眷属の悪鬼・悪神を払うため、とくに先払いするものだ」と語ったという。通基は自らが近衛大将であることを自負していた(7)。当時、淳和・奨学両院の別当は嫡庶に関係なく、村上源氏の現職の最高位の者が補任されたが、近衛大将については久我家だけが補任された。久我荘を除く根本所領を失っていた久我家だが(8)、摂関家と同様、近衛大将に補任される家柄であり、近衛大将を兼任できない堀川・土御門・中院の各家との家格の差は歴然としていた。こののち家格が確定し、久我家は近衛大将をかねて太政大臣にいたる清華家、中院家は近衛大将を兼ねることなく太政大臣にいたる大臣家となる。堀川家・土御門家は断絶した。摂関に補任される摂関家と補任されない清華家の差は歴然としているが、近衛大将に補任される清華家と補任されない大臣家の差も歴然としていた。源頼朝が当時「右大将殿」と称されたのも、近衛大将補任がそれだけ名誉だったからである。
 弘安九年(一二八六)に一遍と和歌の贈答をおこなった土御門内大臣(当時大納言)が通基であれば、一門の嫡流として、中院通成と交流のあった一遍に連絡を取ったものと考えられる。
 しかも『聖絵』では中院(三条坊門)通成を土御門入道前内大臣と記すなど、土御門通親の子孫を広く土御門としているため、土御門内大臣(当時大納言)を久我通基と見なすことができる。
 正応元年(一二八八)七月に通基は内大臣になったが、十月には右近衛大将と内大臣の辞職を求められ、抵抗したものの両職を停止されている(『公卿補任』)。『北条九代記』巻十一「貞時入道諸国行脚付けたり久我通基公還職」では諸国を巡回した北条貞時によって復職したと記されているが、『公卿補任』によれば前内大臣のまま延慶元年(一三〇八)六十九歳で没している。『徒然草』百九十五段では通基が精神に異常を来した原因のひとつとして、両職の停止に憤激したためと考えられる(9)。しかし、これは単なる個人的な憤激にはとどまらない。のちに土御門定実も内大臣停職に抗議しているように、五摂家が成立したことから大臣の席が不足して、一年のあいだに大臣が数回交替することもたびたびあり、形式的な大臣補任のあり方に対する危機感が募っていたと考えられるからである。
 さらに通基と定実の昇進競争があった。通基は定実より一歳年長であったが、昇進は一歩遅れていた。しかし通基は、定実が補任されなかった近衛大将を兼ね、さらに正応元年には定実を超えて内大臣に補任されていた。
通基が内大臣に補任されると、定実は大納言を辞職して籠居していた。これは通基と定実のあいだで官位をめぐり確執があったことを示していよう。ところが久我通基は三か月後には内大臣と右近衛大将の両職を停止され、正応五年(一二九二)二月、定実は伏見天皇に才学を惜しまれて再出仕を求められ(『伏見天皇宸記』正応五年二月十日・二十日条)、三月二十九日に大納言に還任された。八月十四日には従一位に叙されて、九月五日准大臣として朝参するよう宣下を受けている(『公卿補任』正応五年)。これで位階が正二位の通基を超え、また現役の公卿源氏の最高位者として奨学院別当に補任されている(『公卿補任』永仁元年)。さらに永仁四年(一二九六)十二月二十七日には内大臣に補任された。それでも翌五年には内大臣を止められている。定実にとって本意ではなかったため、辞表を提出しなかった。かわって通基が従一位に叙され、通基の子息通雄も内大臣に補任された。『北条九代記』で久我通基が復職したと記すのは、このことを指しているのだろう。
 正安三年(一三〇一)六月二日定実は太政大臣に補任され、定実の子息雅房も大納言で近衛大将を兼任する機会があった。しかし、それでも院近臣の讒言によって雅房の近衛大将補任は実現しなかった(『徒然草』百二十八段)。これで土御門家は清華家に列する機会を失った。
 通基も定実も内大臣を停止させられたときに抵抗しているように、当時の官位昇進のあり方は一年間に数回も大臣が交替するという異常なものであり、官職の形骸化をもたらすものであった。また土御門一門のなかでの通基と定実の昇進競争は激しいものであった。この時期は、それぞれの家門のなかでの嫡庶は確定されていなかったからである。さらに当時の久我家は、その根本家領(10)をめぐり西園寺家と係争していた。

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