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zoom RSS 『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(2)

<<   作成日時 : 2009/10/17 00:30   >>

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 『聖絵』巻七第二段によれば、弘安七年(一二八四)京都因幡堂に移った一遍の許を、土御門入道前内大臣が訪ねて念仏の縁を結んでいる。公家で結縁した最初の人物である。この人物は、土御門通親の孫である内大臣中院通成(一二二二―八六)と考えられる。土御門一門は、藤原道長の女婿であった村上源氏右大臣師房に始まる公家の名門で、院政期に摂関家の対手として勢力を得た。後鳥羽院政期には、内大臣土御門通親が朝廷の実権を握り「源博陸(源関白)」と呼ばれている。
 中院通成は『尊卑分脈』では三条坊門と記されているが、『聖絵』では「土御門入道前内大臣」と呼ばれており、制作者が土御門通親の子孫を広く土御門流と捉えていたことが分かる。さらに『聖絵』巻九には土御門内大臣(于時大納言)が登場し、弘安九年(一二八六)に一遍と和歌の贈答をおこなっていることが記されている。この土御門内大臣については、当時大納言であった土御門定実(一二四一―一三〇六)や久我通基(一二三六―一三一一)が当てられる。同年十二月に通成は没しており、それを契機に一門の土御門内大臣(当時大納言)と一遍のあいだで歌の贈答はおこなわれたと考えられる。
 実は一遍と土御門家の関係が深い。証空は一遍の父通広(如仏)の師であり、一遍が九州で学んだ聖達や華台の師でもあるが、土御門通親の猶子(准子)であった。『聖絵』にも登場する土御門家の人びとならば、後援者として有力である。そのため、近年では土御門内大臣を土御門定実と同一人物と見て、彼が『聖絵』の後援者であったとする説が有力である(1)。たしかに定実は才学があり、大納言辞職後も再出仕を求められ(『伏見天皇宸記』正応五年二月十日・二十日条)、のちに内大臣・太政大臣を歴任した。しかし定実が太政大臣に補任されたのは正安三年(一三〇一)であり、『聖絵』が成立した正安元年(一二九九)には前内大臣である。そのため、『聖絵』定実を太政大臣の異称「一の人」に当てるには無理がある。
 それでも、定実が内大臣であったときには太政大臣が空席だったため、太政大臣(一の人)、左大臣(一の上)、右大臣(一人)の異称がずれて、左大臣が「一の人」、右大臣が「一の上」、内大臣が「一人」と呼ばれたという推測もある(2)。しかし当時は太政大臣が空席でも、大臣を兼任しない関白がいて、太政官の構成は関白鷹司兼忠(一の人)、左大臣二条兼基(一の上)、右大臣九条師教(一人)、内大臣土御門定実であった。しかも、従一位の定実(五十六歳)は、位階も年齢も正二位の右大臣九条師教(二十一歳)を越えていたが、席次は官の通り左大臣・右大臣・内大臣の順とされた(『公卿補任』)。当時、定実が太政大臣の異称「一の人」や右大臣の異称「一人」で呼ばれたと考えるには無理がある。

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