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zoom RSS 大庭氏の家紋―柏紋と鷹羽紋

<<   作成日時 : 2009/05/20 00:50   >>

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 隠岐佐々木氏の初代佐々木義清は、頼朝挙兵時に平家方の大将となった大庭景親の娘婿だが、これまで大庭氏の家紋について決定的なものがなかった。紋章学の沼田頼輔は『日本紋章学』(明治書院、1926年、〔復刻版〕新人物往来社)で、大庭氏の子孫と考えられる幕府旗本大場氏(桓武平氏良文流)の家紋、藤丸・一引両・三つ大文字を挙げている。このうち三つ大文字は「三つ盛り大文字」であり、三星のように「大」の字を三つ盛った紋である。
 この「三つ大文字」については、『源平盛衰記』三五の「義経院参」の条に「大文字三ツ書キタル直垂ニ、黒糸威ノ鎧ハ同国ノ住人梶原平三景時子息景季、生年二十三ト名ノル」とあり、さらに伊勢貞丈『安斎随筆』二〇に「土佐国主山内家臣大庭源之助と云ふもの、家に古き幕あり、先祖の幕なりと云ひ伝ふ。其の幕の紋大の字の下の傍に二の字を画く、則ち大如斯の紋なり、故に名乗に両家(大庭・梶原)とも、景の字を付くるなるべし。かの源之助が家は、庶流なる故に、三大文字を用ゐずして、下の大大の代りに、大の下の傍に二の字を用ふるべし。この二の字を大きにして大二如此にしては、二引両に似たれば、大如斯したる歟」と記されている。
 梶原氏の家紋は「三つ大文字」であり、土佐藩士大庭氏は庶流であったため、「三つ大文字」ではなく、大の下の大大を省略して漢数字の「二」を描いた「大に二文字」としたという。太田亮も『姓氏家系大辞典』で、「土佐藩侍中系図牃」を引用して、大庭氏の紋を「大に二文字」とする。
 しかし沼田頼輔も指摘するように、この梶原景季の直垂の文様を、ただちに梶原氏の家紋ということはできない。『見聞諸家紋』で細川勝元被官梶原氏の家紋を「丸に四つ石畳」とし、また梶原氏の子孫の旧家は「矢筈」を使用している。細川勝元被官では、ほかに安富氏(紀氏)・矢野氏(橘氏)も「丸に四つ石畳」であり、梶原氏の本紋ではなく賜紋かもしれない。佐伯藩主毛利家(宇多源氏佐々木流森氏)の「矢筈」は、外戚瀬尾氏が梶原氏の子孫であったため、船印に「矢筈」を使用したことに始まるという。また歌舞伎『梶原平三誉石切』『義経千本桜すし屋』でも、梶原氏の家紋は「矢筈」である。幸若舞曲『夜討曾我』でも梶原氏の幕紋を「矢筈」とする。「矢筈」が梶原氏の家紋としては代表的なものだったようだ。むしろ、「三つ盛り大文字」は、大庭氏の名字にちなんで「大」の字を三つ盛りにした幕紋と考えられる。三つ盛りは、将軍星を表した「三つ星」に模したものである。梶原氏は大庭氏の支族でり、本家筋ではない。土佐藩士大庭氏が「大に二文字」を使用したのは、梶原氏の庶流だからではなく、大庭氏の庶流だからである。もともと大庭氏の幕紋だったものを、『源平盛衰記』作者が大庭氏の支流梶原景季の直垂紋としたのであろう。
 しかし「三つ大文字」は、あくまで名字にちなんだ「大」の字を三つ盛りにした幕紋であって、本紋ではなかった可能性がある。梶原氏でも、名字にちなんで「梶葉」紋を使用した家がある。
 近世大名や旗本は、高家であれば名門出身だが、その多くは織田・豊臣・徳川系の成り上がりの武家が多く、それぞれの家の嫡流とはいえない。幕府旗本大場氏も、「大庭」ではなく「大場」を名乗っているように庶流あるいは異流と考えられる。旗本大場氏も土佐藩士大庭氏も、もともとは名字にちなんだ大庭氏の幕紋だった「大文字紋」を、家紋としたと考えられる。
 また新撰組の大庭久輔の紋は「丸に木瓜」という。しかし、これも一般化できない。これは浪士だからという理由ではない。たとえば土方氏は後北条氏時代の資料にも見える武蔵国の名門武家であるように、浪人や郷士の中には意外と名門が多い。しかし、近世の家の家紋は、それぞれの家の歴史の中で家紋が替えられることがあるからだ。ひとつの事例ですべては語れない。
 そこでインターネットのブログの記事から、現在の大庭家の家紋を探すと、鷹羽を交差させる「違い鷹羽」を使用している家がある。それも一軒ではない。これはヒントになるかもしれない。
 実は地方の旧家には、中世の名門武家の子孫で帰農して庄屋・名主となった郷士の家柄が多い。江戸時代の豪農は中世武家の子孫で、殿様よりも名門という豪農も多かった。そのような旧家の紋を見れば、本来の家紋が分かる。大庭氏もそうだろう。
 ちょうど私が行き着けのcaféでアルバイトをしている女子大生大庭千佳さんが島根県出身だというので、家紋を聞いてみた。島根県といえば佐々木義清の舅大庭景親の一族かと思えたからだ。島根県には佐々木姓も多いが、大庭姓も多い。そのため友達にも大庭さんがいるという。地元は益田なので出雲ではなく石見だが、石見であれば『太平記』巻二十八之三「高師泰、石見へ遠征す」三角入道の乱の場面で討伐軍のひとりに「大庭孫三郎」が登場する。地頭クラスの国人として石見に在住していた大庭氏の子孫であれば、大庭氏本来の家紋が分かると思えた。実家に聞いたところ、五月人形に「丸に剣三つ柏」が描かれているという。また『紋譜帳』では、大庭平太景能・豊田次郎景利の紋を「違柏」としている。彼らは大庭景親の兄弟である。ここで柏紋が一致したことの意義は大きい。太田亮『姓氏家系大辞典』(磯部甲陽堂、1934年、〔復刻版〕角川書店)の大庭氏の条では、大庭景能の紋が「違い柏」という説を取上げながら、沼田頼輔の『日本紋章学』を引用して、大庭氏の家紋は「違い柏」ではないとしている。しかし沼田氏も大庭氏の家紋が「大文字」であると決したわけではない。むしろ大庭氏の子孫の旧家は柏紋を使用していたのである。大庭氏の本紋は柏紋と考えていいだろう。大庭氏の本領・相模国大庭御厨は伊勢神宮に寄進されており、伊勢神宮との関係から「柏紋」を使用したと分かるからである。実は同じく伊勢神宮領である葛西御厨の葛西氏(桓武平氏良文流)も、「三つ柏」である。「三つ柏」は、柏を将軍星「三つ星」を模した武家らしい家紋である。大庭千佳さんの家の紋は、丸がつき、剣がついているため分流と考えられるが、きっちりと柏紋を伝えていたことになる。また剣をつけるところが、いかにも武家である。
 このように見てくると、現在「違い鷹羽」を使用する大庭氏は、「違い柏」を「違い鷹羽」と誤り伝えてしまったものと考えられる。形状はとてもよく似ているため、大庭氏のように柏紋を鷹羽紋と誤り伝えた家は多いだろう。武家であれば、優美で女紋にもよく使用される柏紋より、矢羽に使う鷹羽を好んだとも考えられる。それが「違い柏」を「違い鷹羽」と誤る精神的風土になっていたのかもしれない。実は、わたしの母の実家桑原氏の本紋は「丸に梅鉢」だが、「違い柏」も伝えていた。しかし「違い柏」の紋が描かれている器が見つけられた当初、男っ気の強い叔父は「違い鷹羽」と思っていた。やはり「違い柏」と「違い鷹羽」は間違いやすいようだ。
 実は「柏に鷹」という紋もあるように、柏と鷹は大和絵では対になっている。そこから、わざと柏紋を鷹羽紋と替えた例もあるかもしれない。

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コメント(11件)

内 容 ニックネーム/日時
佐々木先生、お久しぶりです。またブログ書き込み復活で嬉しく思います。(^^)
>江戸時代の豪農は中世武家の子孫で、殿様よりも名門という豪農も多かった。
――小生のブログでは、各家のご子孫からご先祖について色々とお尋ねがありますが、へぇーっ、あの名門のご子孫でしたかぁー、と驚くことも多々あります。これらのご質問の中には、必ずと言っていい程、自家の家紋についても触れておられます。系譜帳には屡々家紋が書かれていますが、この家紋から系統が判明し面白いですね。これからも先生の記事を楽しみにしております。
∞ヘロン
2009/05/25 06:03
コメントありがとうございます。

家紋を過信することはできませんが、そこから多くのことが分かることも事実です。それが今回の大庭氏の家紋です。柏紋が鷹羽紋と誤伝されていたことも資料になるのですから、それぞれの家に伝わる家紋を大切にしてもらいたいものです。
佐々木哲
2009/05/25 19:46
佐々木先生、初めまして。私は、佐々木(飽浦)三郎左衛門(信胤)について調べているのですが、佐々木三郎左衛門は、「飽浦」という地名を名前を使用しています。実際、岡山県には「飽浦」という地名はございます。私はその隣に住んでおります。佐々木先生は、家紋についても詳しいのですが一つ教えて頂きたいのですがあるお墓の屋根の瓦に右三巴の周りに丸い形が連なっております。(囲んでおります)この家紋を調べているのですがどこにも載っておりません。教えて頂けないでしょうか?これが分かればまた一歩、信胤に近づけれるのでは確信しております。何とぞ、よろしくお願い致します。
飽浦三郎左衛門
2009/06/24 12:00
巴紋は、家紋とは関係なく屋根瓦に良く使用されます。とくに巴紋の周囲を小さな丸が数珠のように連なった輪で囲まれたものは、屋根瓦によく使用されています。巴が水を表し、火災除けとされたのでしょう。

ただし備前佐々木盛綱流三宅氏は、輪宝・三つ星・右巴(三つ巴)を使用しますので、輪宝と三つ巴を組み合わせた紋とも考えられます。

盛綱流が三つ巴を使用するのは、三つ星の変形と考えられます。ほかに三つ星の変形としては州浜紋があります。
佐々木哲
2009/06/25 00:37
大庭と言う姓なので大庭氏について調べています、秋田在住で父の実家も秋田です、家紋は丸に梅鉢です、記事の中に「実は、わたしの母の実家桑原氏の本紋は「丸に梅鉢」だが」と有りますが大庭氏との関係があるのですか
achacha
2009/12/26 21:24
梅鉢紋は、菅原氏族以外でも、天神信仰から多くの家で家紋とされました。achachaさんは大庭氏ということですから、天神信仰で梅鉢紋を使用するようになったのだと思います。加賀藩主前田家も実は美濃斎藤氏流であり、梅鉢紋を使用していたために菅原氏流と名乗るようになりました。美濃では天神信仰が盛んだったのです。

私の母方は菅原氏流桑原家のため梅鉢紋ですが、傍流であるため、前田家と同様に剣の小さい「丸に剣梅鉢紋」を使用しています。
佐々木哲
2009/12/31 21:51
私は、大場家の子孫です大場家と大庭家何か関係があるんですか?
陽炎
2012/09/29 15:31
幕府旗本の大場氏は、相模鎌倉党の大庭氏の子孫と名乗っていますが、大庭という地名も、大場という地名も全国にあり、武蔵の大場氏も大庭氏とは別流の可能性があります。

そのため、大場氏であれば必ず大庭氏の子孫だとは言い切れません。

家系調査はとても難しいものです。
佐々木哲
2012/09/29 20:07
大庭氏の傍流の伝承がある者です、勉強になりました、ありがとうございました。
景久
2014/10/06 16:45
大庭という地名にそもそも神領という意味があるようです。そうであれば、神事で使用される柏紋を使用するのも当然です。

これまでの家紋研究は江戸期の寛政重修諸家譜などによることが多く、そのため近世に幕府や諸藩に仕官していた家中心になってしまいます。しかし戦国期に多くの名家が没落しており、近世に存続していた武士はむしろ庶流ということが多いのです。近世中心の家紋研究には限界があるでしょう。大庭氏の家紋も、その一例といえます。
佐々木哲
2014/10/15 23:20
静岡県東部の大庭です。私の家の家紋は 丸に三つ柏です。元々大庭は 藤沢市大庭の御厨ですから 家紋も柏なのかと解釈していました。同じ姓でも 分家を繰り返し家紋も変化していくのは面白いですね。
大庭
2017/03/28 23:51

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