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zoom RSS 歴史読本「戦国大名血族系譜総覧」2009年4月号・「六角氏」原稿

<<   作成日時 : 2009/05/06 14:18   >>

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概略
六角氏は宇多源氏佐々木氏の嫡流で、鎌倉期から戦国期まで一貫して近江守護であった。このように鎌倉期から守護を維持しえたのは、畿内近国では六角氏のみである。しかも経済の先進地域である近江は一国で地方の数か国に相当した。室町期には将軍足利義満の弟満高を養子に迎え、また将軍足利義教の比叡山焼討ちで満綱が山門領押使をつとめて、嘉吉の土一揆では黒幕であった。文安の乱では満綱・持綱父子が自殺して衰退するが、応仁・文明の乱で高頼が活躍して再び盛り返した。足利義尚・義稙二代の将軍親征を受けたが(長享・延徳の乱)、十一代将軍足利義澄に赦免されると室町幕府の保護者に転じている。
六角氏嫡流である本所は中央と結び、@氏綱は足利義澄妹を妻に迎え、また摂関家と閨閥を形成し、A義久は天皇家典侍を妻に迎え天皇家と私的な関係を築いた。足利将軍家が分裂しており、天皇を調停者に考えたのだろう。さらにB義秀は十二代将軍足利義晴娘を迎え、娘は宇多源氏流の公家庭田重定に嫁いでいる。庭田家は室町期に天皇家典侍を輩出し、本願寺顕如の母の実家でもあった。これで天皇家や本願寺との連携が取れた。織田信長が登場すると、C義堯は足利義昭の仲介で信長養女を迎え、さらにD足利義昭の養子義康は信長孫娘を迎えて、義昭と信長の両者から協力を求められた。本所は両者の間で揺れることになる。また天皇を調停者とする政策については、信長・秀吉に受け継がれた。
一方、陣代は在国政権として周辺諸大名と閨閥を築いている。定頼は細川晴元に娘を嫁がせ、さらに本願寺顕如に養女を嫁がせて同盟を結んだ。一向一揆に苦しむ諸大名は六角氏との婚姻を介して本願寺と結び、@定頼の娘は細川晴元・本願寺顕如のほか、伊勢北畠晴具・美濃土岐頼芸・若狭武田信豊に嫁いだ。またA義賢(のち承禎)は能登畠山義総娘、美濃土岐頼芸妹を妻に迎え、娘は北畠朝親、能登畠山義綱に嫁いでいる。このように六角氏は北陸諸大名の盟主となり、嫡流である本所は北陸道管領と呼ばれたという。さらにB義治は美濃斎藤義龍娘を迎えた。父義賢(承禎)は重縁土岐氏の宿敵斎藤氏娘を迎えることに反対したが、自立を目指した浅井長政を抑えるのに成功している。これら諸大名との同盟が足利義昭を擁立する勢力になり、織田信長包囲網にもなった。

氏綱の閨閥
六角氏は鎌倉公方との関係が深く、氏綱の母は古河公方足利成氏娘であった。さらに明応の政変で堀越公方足利政知の子息義澄は、将軍に推されると六角氏を赦免し、駿河今川氏に養育されていた妹を上洛させ、氏綱に嫁がせた。これで六角氏は幕府の保護者に転じ、前将軍義稙が上洛を目指すと阻止している。しかし義澄・義稙両者から協力を求められ、敗北した義澄は保護を求めて近江に逃れて病没し、義稙も氏綱に協力を求めて氏綱嫡子の義久を猶子にして、高頼・氏綱没後には義久(佐々木四郎)を近江守護に補任した。幼少の義久を陣代定頼が貢献した。
 氏綱は摂関家とも閨閥を形成して、上洛したときに近衛政家・尚通父子を訪問し、女子を二条晴良に嫁がせた。伏見宮王女を養女にしたものだろうか。もうひとりの女子は、京極材宗に嫁ぎ、近江北郡守護の京極氏の内紛に介入した。材宗は本名が経秀であるため、佐々木系図では「高秀」と記され、その子が京極高吉(高慶・高佳)である。高吉は六角氏から一門衆「五郎殿」と遇され、反抗し続ける同族京極高広(六郎)を非難している。

義久の閨閥
義久(本名隆頼)の母は足利政知娘で、妻は後奈良天皇典侍である。足利義澄の子十二代将軍義晴が成長すると近江に保護し、さらに細川晴元と和睦して定頼の娘と婚約させ、義晴の帰京に成功した。義久(四郎殿様)は義晴の上洛に供奉し、のち江州宰相と呼ばれている。さらに義久は恵林院殿十三回忌法事を主催して義稙の後継者であると宣伝し、義稙養子の阿波公方義維・義親(義栄)父子を牽制することで、足利義晴政権を支援した。
六角氏が京都で活動している間、『お湯殿の上の日記』に「亀寿」の記事が頻出する。さらに亀寿(のち義秀)の元服で、典侍が天皇家に音物を献上しており、亀寿の母が、天皇家典侍であると分かる。当時、内侍所長官の尚侍は空席で、次官の典侍が天皇の后妃候補者であり、宇多源氏流庭田家、勧修寺流勧修寺・万里小路家、日野流広橋家など羽林・名家出身者の女性が典侍となった。義久はそのような典侍を妻としたことで天皇家と身内になり、嫡子亀寿は硯蓋・近江瓜・花・饅頭・酒・下草など日常生活の必需品を献上している。分裂して衰退した足利将軍家にかわる調停者を、天皇に期待したのだろう。

義秀の閨閥
義秀(本名公能)の母は典侍、妻は足利義晴娘。元服では、母の典侍が天皇家に御礼をしていることから公家式の元服と考えられる。佐々木系図で妻を足利義晴の娘とするが、続群書類従本伊勢系図では十三代将軍足利義輝の妾と実子を給わるという。
群書類従本『万松院殿穴太記』は、天皇家内侍所の原本を書写したものであり、義秀が献上したものと考えられる。子息亀千代の髪置でも、音物を天皇家に献上している。
六角氏は足利義輝と三好長慶を和睦させ、帰洛した義輝は義久への贈官を申請している。さらに河内畠山氏と連携して三好包囲網を築いた。しかし浅井長政の自立で後方を撹乱され、三好氏に止めを刺せなかった。さらに陣代義治が後藤但馬守父子を殺害する観音寺騒動が起こると、三好・松永氏によって将軍義輝が殺害された。弟の一乗院覚慶(義昭)は奈良脱出に成功し、六角氏は覚慶を近江に保護して還俗させたが、承禎父子が三好三人衆と結んだため、義昭は若狭・越前へと移った。義昭は六角氏閨閥の前関白二条晴良の加冠で公家式の元服を行い四位に叙位され、五位の十四代将軍足利義栄を超えた。さらに織田信長が美濃を攻略すると、義昭は信長を頼っている。信長軍は近江愛智川で六角主力軍に敗退したが、承禎と結ぶ三好三人衆軍が帰京すると近江に引き返し、和田山城・観音寺城の六角主力軍を避けて箕作城を攻め、承禎父子を甲賀に追った。

義堯の閨閥
義堯(本名実頼)の妻は織田信長養女である。十五代将軍足利義昭が仲人だろう。こののち岩倉織田氏(織田氏嫡流伊勢守)と犬山織田氏(岩倉織田氏の宿老)が六角氏と行動を共にしていることから、この信長養女は犬山之伊勢守息女と考えられる。
義秀が没すると家督を継ぎ、信長書状の宛先では近江修理大夫とされる。義堯の家老は、元亀元年正月畿内近国の諸大名に上洛を催促した織田信長触状の宛先、木村筑後守であろう。義秀が没したことを、信長は「言語道断」と述べて六角承禎父子の帰国を警戒したが、信長の朝倉義景追討で元亀争乱が始まると、実際に承禎父子は浅井長政を誘い挙兵した。
足利義昭が信長と決別し武田信玄が上洛軍を起こすと、義堯は池田景雄を使者として承禎・義治父子に相談を持ちかけている。信玄の病没で第一次信長包囲網は崩壊し、足利義昭は京都を追放され、朝倉・浅井氏は滅亡したが、義堯は承禎を使者として甲斐武田勝頼と越後上杉謙信の同盟を実現させた。さらに足利義昭の誘いには躊躇していた毛利輝元も、義堯の誘いには応じ、足利義昭の備後下向を実現させた。第二次信長包囲網の形成である。
足利義昭に同行した義堯は、承禎から大本所と呼ばれ、さらに『天王寺屋会記』に「佐々木殿」が見えることから、義堯は子息義康に家督を譲ってから備後に下向したと考えられる。義康の後見人は磯野員昌であり、天正六年正月義堯が堺に上陸すると、二月員昌は出奔している。これは、義堯と連携した動きだろう。甲斐武田勝頼の滅亡では、佐々木次郎・若狭武田五郎・岩倉織田・犬山織田・土岐頼芸ら六角氏の縁者が捕らわれた。
義康は、明智光秀の乱後に足利義昭の養子になり、小田原の陣での茶会では「近江六角殿」に足利義昭の側近真木島昭光が近侍している。義康は妻に織田信長孫娘を迎えたが、この女性は足利義昭邸に迎えられた「信長ヒソウ虎福女」と考えられる。

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