2009年東大前期・国語第4問「昔語りと死生観」【予告編】
いなかに百一歳の叔母がいる。いなかは奥会津である。若い日には山羊を飼って乳などを搾っていたので山羊小母と呼ばれている。山羊小母の家に行ったことは二、三度しかないが説明するとなると結構たいへんである。
一見、藁葺屋根の普通の農家だが、入口を入ると土間があって、その土間を只見川の支流から引き入れた水が溝川をなして流れている。台所の流しから流れる米の磨ぎ汁をはじめ、米粒、野菜の切り屑などはこの溝川を流れて庭の池に注ぎ込む。池には鯉がいて、これを餌にしている。
土間から上がった板敷には囲炉裏が切ってあり、冬場は薪がぼんぼん焚かれ、戦前までは小作の人たちが暖を取っていたという。板敷につづく少し高い板の間にはぶ厚い藁茣蓙が敷かれていて、大きな四角い火鉢が置かれ、太い炭がまっかに熾され鉄瓶の湯が煮えたぎっていた。そのまた奥に一段高い座敷があり、そこが仏壇のある当主の居間であった。当主は仏壇を背にして坐り、ここにも大きな火鉢がある。隠居の老人は口少なに控え目の姿でこの部屋に坐っていた。
土間からの上がり框には腰かけて休息の湯を飲む忙しい日の手伝い人もいたり、囲炉裏の周りの人の中にはすぐ立てるように片膝を立てて坐っている若い者もあったという。ア農業が盛んだった頃の一風景が、段差のある家の構造自体の中に残っているのだ。
戦後六〇年以上たって農村はまるで変ったが、家だけは今も残っていて山羊小母はこの家に一人で住んでいた。夫は早くなくなり、息子たちも都会に流出し、長男も仕事が忙しく別居していた。私がこの叔母の家に行ったのはその頃だった。家は戸障子を取りはずして、ほとんどがらんどうの空間の中に平然として、小さくちんまりと坐っている。
「さびしくないの」ときいてみると、何ともユニークな答えがかえってきた。「なあんもさびしかないよ。この家の中にはいっぱいご先祖さまがいて、毎日守っていて下さるんだ。お仏壇にお経は上げないけれど、その日にあったことはみんな話しているよ」というわけである。家の中のほの暗い隈々にはたくさんの祖霊が住んでいて、今やけっこう大家族なのだという。それはどこか怖いような夜に思えるが、長く生きて沢山の人の死を看取ったり、一生という命運を見とどけてきた山羊叔母にとっては、イ温とい思い出の影がその辺いっぱいに漂っているようなもので、かえって安らかなのである。
私のような都会育ちのものは、どうかすると人間がもっている時間というものをつい忘れて、えたいのしれない時間に追いまわされて焦っているのだが、山羊小母の意識にある人間の時間はもっと長く、前代、前々代へと溯る広がりがあって、そしてその時間を受け継いでいるいまの時間なのだ。
築百八十年の家に住んでいると、しぜんにそうなるのだろうか。村の古い馴染みの家の一軒一軒にある時間、それは川の流れのようにあっさりしたものではなく、そこに生きた人間の貌や、姿や、生きた物語とともに伝えられてきたものである。破滅に瀕した時間もあれば、交流の活力を見せた時間もある。そんな物語や逸話を伝えるのが老人たちの役割だった。
冬は雪が家屋の一階部分を埋めつくした。今は雪もそんなに降らなくなり、道にも融雪器がついて交通も便利になった。それでも一冬に一度ぐらいは大雪が降り車が通らなくなることがある。かつてこの村の春は、等身大の地蔵さまの首が雪の上にあらわれる頃からだった。長靴でぶすっぶすっと膝まで沈む雪の庭を歩いていると、山羊小母はそのかたわらを雪下駄を履いてすいすいと歩いてゆく。ふしぎな、妖しい歩行術である。そういえば、ある夏のこと、蛍の青い雫をひょいと手に掬い取り、何匹も意のままに捕まえてみせてくれたが、いえば、どこか山姥のような気配があった。
こういう「ばっぱ」とか「おばば」と呼ばれているお年寄がどの家にもいて、長い女の時間を紡いでいたのだ。もう一軒、本家と呼ばれる家にも年齢不詳の綺麗なおばばがいて、午後にも必ず着物を替えるというほどお洒落なおばばだった。何でも越後から六十六里越えをして貰われてきた美貌の嫁だったという。物腰優美で色襟を指でもてあそびながら、絶えまなく降る雪をほうと眺めていた。
越後の空を恋うというのでもなく、実子を持たなかったさびしさをいうのでもなく、ただ、ただ、雪の降る空こそがふるさとだというように、曖昧なほほえみを漂わせて雪をみている。しかし、決して惚けているのではない。しゃもじをいまだに嫁に渡さないと囁く声をどこかできいた。命を継ぎ、命を継ぐ、そして列伝のように語り伝えられる長い時間の中に存在するからこそ安らかな人間の時間なのだということを、私は長く忘れていた。
長男でもなく二男でもない私の父は、ウこんな村の時間からこぼれ落ちて、都市の一隅に一人一人がもつ一生という小さな時間を抱いて終った。私も都市に生まれ、都市に育って、そういう時間を持っているだけだが、折ふしにこの山羊小母たちが持っている安らかな生の時間のことが思われる。エそれはもう、昔語りの域に入りそうな伝説的時間になってしまったのであろうか。(馬場あき子「山羊小母たちの時間」)
設問
(一)「農家が盛んだった頃の一風景が、段差のある家の構造自体の中に残っているのだ」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。
(二)「温とい思い出の影がその辺いっぱいに漂っているようなもので、かえって安らかなのである」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。
(三)「こんな村の時間からこぼれ落ちて、都市の一隅に一人一人がもつ一生という小さな時間を抱いて終った」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。
(四)「それはもう、昔語りの域に入りそうな伝説的時間になってしまったのであろうか」(傍線部エ)とあるが、文中の「私」はなぜそう思うのか、本文全体を踏まえて説明せよ。
【解説&解答例】
(一)
【解説】傍線部アは段落最後の文であり、山羊小母の家の構造を説明した段落群のまとめの文である。筆者は、山羊小母の家の構造を説明するに当たり、農地改革以前の庄屋の様子を説明している。このことで、農家の構造が使用目的に即した合理的なものであったことが分かる。段差にもきちんとした意味があったのだ。このことをまとめればいい。山羊小母の家が庄屋であったことは、小作人のことが述べられている個所で分かる。
【解答例】
戦前の農家の構造は使用目的に即した合理的なものであり、家の構造からも当時の農村の様子がうかがい知れるということ。
(二)
【解説】傍線部イは、今ではがらんどうの家に住んでいて寂しくないのと聞く筆者に、山羊小母が答えた内容を記した段落の最後の文である。この段落の内容をまとめればいい。山羊小母は、家の中にはたくさんのご先祖様がいて、毎日見守ってくれているという。霊というと怖くも思えるが、多くの人の死を看取ってきた山羊小母には、家の中の霊は怖いものではなく、むしろ自分のことを見守ってくれる身近な存在なのである。これが、前近代の死生観につながろう。先祖が見守ってくれるということは、自分も先祖として見守る存在になるということである。たとえ肉体が死んでも、近しい者の祖霊として存在し続けるという安心感がそこにはある。このような祖霊と結びついた死生観は、東大入試で好まれて出題される死生観である。
【解答例】
旧家には祖霊が住み毎日見守られていると思えるため、一人で住んでいても寂しくはなく、むしろ安心して生活できるということ。
(三)
【解説】傍線部ウは、傍線部イとは対照的な内容であり、前近代的な死生観が失われた都会では、個としての死しかないことが述べられている。そこでは、死は消滅でしかない。先祖代々の系譜が語り継がれる長い時間の中に生きているからこそ、安心して暮らせるのが人間的な時間であると述べた直後に、傍線部ウを含む段落がある。このことで、筆者が都会の生活に否定的であることが分かる。それが傍線部ウの「村の時間からこぼれ落ちて」という表現になっている。
【解答例】先祖に見守られることもなく、先祖のひとりとして語り継がれることもなく、個として死んでいったということ。
(四)
【解説】傍線部エは、本文最後の文である。傍線部イにおける伝統的な死生観と傍線部ウにおける死生観を比較した後に、伝統的な死生観がもはや現実ではなく伝説になってしまっていることを嘆く個所である。傍線部エの「昔語りの域に入りそうな」という言葉に、筆者の残念がる気持ちが出ている。このことをまとめればいいだろう。
【解答例】
筆者は、死んでも語り継がれることで存在し続ける伝統的な死生観をうらやましく思っており、それが失われつつある現在を残念がっているから。
一見、藁葺屋根の普通の農家だが、入口を入ると土間があって、その土間を只見川の支流から引き入れた水が溝川をなして流れている。台所の流しから流れる米の磨ぎ汁をはじめ、米粒、野菜の切り屑などはこの溝川を流れて庭の池に注ぎ込む。池には鯉がいて、これを餌にしている。
土間から上がった板敷には囲炉裏が切ってあり、冬場は薪がぼんぼん焚かれ、戦前までは小作の人たちが暖を取っていたという。板敷につづく少し高い板の間にはぶ厚い藁茣蓙が敷かれていて、大きな四角い火鉢が置かれ、太い炭がまっかに熾され鉄瓶の湯が煮えたぎっていた。そのまた奥に一段高い座敷があり、そこが仏壇のある当主の居間であった。当主は仏壇を背にして坐り、ここにも大きな火鉢がある。隠居の老人は口少なに控え目の姿でこの部屋に坐っていた。
土間からの上がり框には腰かけて休息の湯を飲む忙しい日の手伝い人もいたり、囲炉裏の周りの人の中にはすぐ立てるように片膝を立てて坐っている若い者もあったという。ア農業が盛んだった頃の一風景が、段差のある家の構造自体の中に残っているのだ。
戦後六〇年以上たって農村はまるで変ったが、家だけは今も残っていて山羊小母はこの家に一人で住んでいた。夫は早くなくなり、息子たちも都会に流出し、長男も仕事が忙しく別居していた。私がこの叔母の家に行ったのはその頃だった。家は戸障子を取りはずして、ほとんどがらんどうの空間の中に平然として、小さくちんまりと坐っている。
「さびしくないの」ときいてみると、何ともユニークな答えがかえってきた。「なあんもさびしかないよ。この家の中にはいっぱいご先祖さまがいて、毎日守っていて下さるんだ。お仏壇にお経は上げないけれど、その日にあったことはみんな話しているよ」というわけである。家の中のほの暗い隈々にはたくさんの祖霊が住んでいて、今やけっこう大家族なのだという。それはどこか怖いような夜に思えるが、長く生きて沢山の人の死を看取ったり、一生という命運を見とどけてきた山羊叔母にとっては、イ温とい思い出の影がその辺いっぱいに漂っているようなもので、かえって安らかなのである。
私のような都会育ちのものは、どうかすると人間がもっている時間というものをつい忘れて、えたいのしれない時間に追いまわされて焦っているのだが、山羊小母の意識にある人間の時間はもっと長く、前代、前々代へと溯る広がりがあって、そしてその時間を受け継いでいるいまの時間なのだ。
築百八十年の家に住んでいると、しぜんにそうなるのだろうか。村の古い馴染みの家の一軒一軒にある時間、それは川の流れのようにあっさりしたものではなく、そこに生きた人間の貌や、姿や、生きた物語とともに伝えられてきたものである。破滅に瀕した時間もあれば、交流の活力を見せた時間もある。そんな物語や逸話を伝えるのが老人たちの役割だった。
冬は雪が家屋の一階部分を埋めつくした。今は雪もそんなに降らなくなり、道にも融雪器がついて交通も便利になった。それでも一冬に一度ぐらいは大雪が降り車が通らなくなることがある。かつてこの村の春は、等身大の地蔵さまの首が雪の上にあらわれる頃からだった。長靴でぶすっぶすっと膝まで沈む雪の庭を歩いていると、山羊小母はそのかたわらを雪下駄を履いてすいすいと歩いてゆく。ふしぎな、妖しい歩行術である。そういえば、ある夏のこと、蛍の青い雫をひょいと手に掬い取り、何匹も意のままに捕まえてみせてくれたが、いえば、どこか山姥のような気配があった。
こういう「ばっぱ」とか「おばば」と呼ばれているお年寄がどの家にもいて、長い女の時間を紡いでいたのだ。もう一軒、本家と呼ばれる家にも年齢不詳の綺麗なおばばがいて、午後にも必ず着物を替えるというほどお洒落なおばばだった。何でも越後から六十六里越えをして貰われてきた美貌の嫁だったという。物腰優美で色襟を指でもてあそびながら、絶えまなく降る雪をほうと眺めていた。
越後の空を恋うというのでもなく、実子を持たなかったさびしさをいうのでもなく、ただ、ただ、雪の降る空こそがふるさとだというように、曖昧なほほえみを漂わせて雪をみている。しかし、決して惚けているのではない。しゃもじをいまだに嫁に渡さないと囁く声をどこかできいた。命を継ぎ、命を継ぐ、そして列伝のように語り伝えられる長い時間の中に存在するからこそ安らかな人間の時間なのだということを、私は長く忘れていた。
長男でもなく二男でもない私の父は、ウこんな村の時間からこぼれ落ちて、都市の一隅に一人一人がもつ一生という小さな時間を抱いて終った。私も都市に生まれ、都市に育って、そういう時間を持っているだけだが、折ふしにこの山羊小母たちが持っている安らかな生の時間のことが思われる。エそれはもう、昔語りの域に入りそうな伝説的時間になってしまったのであろうか。(馬場あき子「山羊小母たちの時間」)
設問
(一)「農家が盛んだった頃の一風景が、段差のある家の構造自体の中に残っているのだ」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。
(二)「温とい思い出の影がその辺いっぱいに漂っているようなもので、かえって安らかなのである」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。
(三)「こんな村の時間からこぼれ落ちて、都市の一隅に一人一人がもつ一生という小さな時間を抱いて終った」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。
(四)「それはもう、昔語りの域に入りそうな伝説的時間になってしまったのであろうか」(傍線部エ)とあるが、文中の「私」はなぜそう思うのか、本文全体を踏まえて説明せよ。
【解説&解答例】
(一)
【解説】傍線部アは段落最後の文であり、山羊小母の家の構造を説明した段落群のまとめの文である。筆者は、山羊小母の家の構造を説明するに当たり、農地改革以前の庄屋の様子を説明している。このことで、農家の構造が使用目的に即した合理的なものであったことが分かる。段差にもきちんとした意味があったのだ。このことをまとめればいい。山羊小母の家が庄屋であったことは、小作人のことが述べられている個所で分かる。
【解答例】
戦前の農家の構造は使用目的に即した合理的なものであり、家の構造からも当時の農村の様子がうかがい知れるということ。
(二)
【解説】傍線部イは、今ではがらんどうの家に住んでいて寂しくないのと聞く筆者に、山羊小母が答えた内容を記した段落の最後の文である。この段落の内容をまとめればいい。山羊小母は、家の中にはたくさんのご先祖様がいて、毎日見守ってくれているという。霊というと怖くも思えるが、多くの人の死を看取ってきた山羊小母には、家の中の霊は怖いものではなく、むしろ自分のことを見守ってくれる身近な存在なのである。これが、前近代の死生観につながろう。先祖が見守ってくれるということは、自分も先祖として見守る存在になるということである。たとえ肉体が死んでも、近しい者の祖霊として存在し続けるという安心感がそこにはある。このような祖霊と結びついた死生観は、東大入試で好まれて出題される死生観である。
【解答例】
旧家には祖霊が住み毎日見守られていると思えるため、一人で住んでいても寂しくはなく、むしろ安心して生活できるということ。
(三)
【解説】傍線部ウは、傍線部イとは対照的な内容であり、前近代的な死生観が失われた都会では、個としての死しかないことが述べられている。そこでは、死は消滅でしかない。先祖代々の系譜が語り継がれる長い時間の中に生きているからこそ、安心して暮らせるのが人間的な時間であると述べた直後に、傍線部ウを含む段落がある。このことで、筆者が都会の生活に否定的であることが分かる。それが傍線部ウの「村の時間からこぼれ落ちて」という表現になっている。
【解答例】先祖に見守られることもなく、先祖のひとりとして語り継がれることもなく、個として死んでいったということ。
(四)
【解説】傍線部エは、本文最後の文である。傍線部イにおける伝統的な死生観と傍線部ウにおける死生観を比較した後に、伝統的な死生観がもはや現実ではなく伝説になってしまっていることを嘆く個所である。傍線部エの「昔語りの域に入りそうな」という言葉に、筆者の残念がる気持ちが出ている。このことをまとめればいいだろう。
【解答例】
筆者は、死んでも語り継がれることで存在し続ける伝統的な死生観をうらやましく思っており、それが失われつつある現在を残念がっているから。
この記事へのコメント
かならず理由を言いましょう。私も書き換えようと思っているところだから、参考になるかもしれないので、意見を聞かせてください。
下線部に「段差のある」とあります。
第三段落をみると、外側から内側(奥)に向かって、小作人の住居→当主/仏壇の間となっており、その境には段差が設けられています。
したがって、農作業に適していることだけでなく、地主―小作人という階級的な人間関係も含めて答えたほうがいいと思います。
なお「農村の様子」だとこの点が曖昧になるかと思います。
問四
問われているのは、実感としての「山羊小母たちの時間」が失われつつあり伝説と化してしまったのだろうかと著者が思った理由ですね。
ポイントは、「山羊小母たちの時間」に対する羨ましさや嘆きといった著者の感情ではなく、その時間が失わつつあると思った理由・根拠です。
膨らませるべきなのは、「それが失われつつある現在」の根拠づけです。
一、百一歳の山羊小母はひとりで暮らしている。「息子たちも都会に流出」。
ニ、都市で暮らした著者の父は「山羊小母たちの時間」の時間を生きられなかった。
三、都会育ちの著者は「山羊小母たちの時間」を思い出せるが、「つい忘れ」る。
「山羊小母たちの時間」の前提となる、連綿と続いた「家」が失われつつあることを答えるべきだと思います。
先祖と同じ家に住むことで、先祖に見守られながら生きることができるから、寂しくはない。同じお墓に入ることができるから寂しくない。子孫が墓参りをするから、子孫が続く限り、子孫の記憶の中に生き続ける。
ここが大家族の田舎と核家族の都市の違いです。これを底流として各設問に応える必要があります。
設問(一)で庄屋と小作の身分制を直接論述しなかったのは、本文で身分制以外のことも述べられており、身分制に限定したくなかったからです。そのことは、私の解説にも書いてあるはずです。
問一
意図がわかっていなかったようです。
佐々木さんが解説で「庄屋」「小作人」という言葉を使いながら、解答では「当時の農村の様子」と広げたことに、「身分制に限定したくなかった」ことが表れている、ということでしょうか。
本文中の「身分制以外のこと」というのは傍線部アの直前の一文のこと、でいいでしょうか?
問四
設問が何を聞いているのかに限定したいのですが。
傍線部のある段落は、都会へと出た父親は人間一人の小さな時間を生きた。筆者もその時間しか持っていない。が、「山羊小母たちが持っている安らかな生の時間」は時折思い出される。
「山羊小母たちの時間」は伝説的時間(現在では通用しない、聞き手と切り離され実感のない時間)となってしまったのだろうかと、筆者は思っている。
聞かれているのは「山羊小母たちの時間」が伝説化した(と筆者が思う)理由。
だから、「筆者が残念がっているから」などは解答すべき内容ではなく、
山羊小母のように実際に伝統のある家の中で暮らす者が減った・筆者もふと思い出すくらいでその時間を生きてはいない、などといった、伝統から人々が切り離されつつあるから、伝説化したのではと思う。
伝説化←家のつながりが絶たれつつある という原因を答えるのではないですか?
佐々木さんの解答だと、なぜそう思うのかではなく、それをどう思うのかになっているように見えるのですが。
ここでは筆者の感慨を説明することを求めています。田舎の大家族制度が崩壊したのが背景にあるので、そのことをあらためて述べるのは間違っていません。字数がゆるすなら書き加えた方が良いでしょう。ただし筆者が残念がっているのは、家制度が無くなったことではなく、家制度のもとで語り継がれてきた個々の家の伝承です。
そのため、私の解答例では、家制度ではなく、伝承が失われたことを中心に述べました。そして、筆者が残念がっていると結論づけています。
筆者の感慨を説明せよと問うているので、○○をうらやましく思っており、それが失われたことを残念がっている、とまとめたのです。
当時の農村の様子 では不十分かと
問二は良いですが問四は・・
そのうえで回答させていただきます。問一は家の構造を比喩ととらえて、さらに解釈することも可能ですが、家の構造に当時の社会の様子が表現されているという考察であり、家の構造は比喩とはいえません。むしろ、家の構造からどのして当時の歴史を考察できるのかを説明する必要があると思います。
問二を評価していただき、ありがとうございます。励みになります。
問四は、「昔語りになりそう」をうまく表現しようとしたものです。昔語りということは、もう現在のものではなく、思い出されるものにすぎないという意味ですから、それを中心にまとめました。
農業が盛んだった頃の一風景が今も残っている筈がないのです。
戦前の活気に満ち溢れたさまが想起されるという比喩です。
問四はTJさんも仰っているように理由を述べるものであって感慨(?)を述べるものではありません。
安らかな生の時間が、昔語り(伝説)になる、つまり現在無くなってしまった原因を述べるものです。
>私の解答例は受験生でも書けるものという姿勢で書かれたものですから、受験生が時間内に書けないような模範解答にはしていません。これはほかの年度も同じです。
これ記事の頭に書いておいてください。誤解を招きます。
失礼致しました。
問四についても、筆者の感慨の理由を聞いているのです。昔の安らぎは何ですか?それが昔の死生観です。その死生観が失われたので、安らかな時間が昔語り、つまり現在ではすでにないものになったということです。原因が死生観の喪失であると述べていますよ。
私が受験生のレベルを心掛けていることは、このブログの様々な個所で述べています。
農業が盛んだった頃の一風景が今も残っている筈がないのです。
戦前の活気に満ち溢れたさまが想起されるという比喩です。
これは問一について述べたものです。言葉足らずでした
ね、すみません。
無くても理解して頂けるものかと思いましたが、勘違いでした。
問四ですが、傍線部中から作者の感慨を把握するのではなく、作者が伝説的時間を喪失した原因を述べるものです。
安らかな生の時間を継ぐ若者が都市に流出し、都会育ちの筆者もまた慌ただしい時間に追われてそうした時間を忘れているためです。
とても解答例とは思えませんでしたので、つい。
そして筆者は都会に出てきて、あわただしい現実の中で、昔の人びいとが持っていた死生観を失っていることに気付いたのです。この死生観もこの課題文全体をおおうテーマです。
部分的な解釈しかできないのですね。全体は部分から成り立っています。同時に部分は全体を構成する契機であり、全体と不可分な関係にあります。部分を解釈するときには全体との関係で読む必要がります。
受験現代文の模範解答の多くが、減点を避けようとするあまり、全体の解釈をなおざりにして、一字一句をこじつけで解釈しする傾向にあります。とても残念な傾向です。最近の東大現代文の問題が易化の傾向にあるのも、あきらめているからでしょう。
>古い建築から歴史を理解しようという歴史考古学という学問もあように、現存するものから当時を知るという考察があるのです。筆者はそのような考察をしているのです。それが、この課題文の手法です。
とても受験生の視点に立って回答を作成しておられる方のコメントとは思えませんね…
一体どれだけの受験生が限られた制限時間の中で歴史考古学を理解し、その上で解答しているのでしょうか。
解答の不充分を指摘された途端に これは受験生レベルのものです。 と逃げ、かと思えば、掌を返し大学でやるような学問を持ち出し都合の良い返答をしていらっしゃいますね。
何も分かっていない、ということが分かったそうですが、
かならず理由を言いましょう。私も書き換えようと思っているところだから、参考になるかもしれないので、意見を聞かせてください
私はあなたの指摘の方が、建築物の構造から当時の様子が分かるという筆者の主張を読み込んだうえで、批判しているように思えませんし、また死生観が重要であるということも読み込めているように思えません。
もし仮にそこに何らかの感慨、重要性の主張がこめられていたとしても、設問では生の時間が失われた原因を問いており、歴史学は解答に関与しませんし、解答から逸脱しています。
>歴史学で、文化史を学ぶのはなぜなのですか?歴史学は文字資料だけだと思っているのですか?どうして無文字社会であった原始のことを、教科書で教えられるのですか?歴史考古学という言葉は受験生の範囲ではなくても、文字資料以外からも歴史が考察できることは、受験生でも知っていますよね。
批判になっておりません。
現代文は、あなたの好き勝手な解釈、知識のひけらかしを求めているものではありません。
私は知識をひけらかしていませんよ。高校で地歴を学ぶはずです。この文章を読めば、建築物の構造から当時を再現していることが分かります。時代によって建築物の様式が変わることは習っているはずです。
また、この文章のポイントは死を前向きにとらえていることです。死者見守られられているから安心して生きることができるし、また自分も子孫からそのように思ってもらえるから、安心して死ねるという死生観を、筆者はうらやましく思っています。このように安心して死ぬることは、安心して生きることだと筆者は抽象していると読めます。生と死を切り離すのは現代的な考えで、それをやわらかく批判している文といえます。そのため生と死を切り離して解答すれば、それは十分に読み込めていないということになります。
論拠はどこにあるのでしょうか。
また原因を述べる設問に作者の感慨が関係しないことをいつになったら理解して頂けるのでしょうか…
TJさん共々回答を直して差し上げているのですから、意固地にならないで頂きたいです。
歴史観は生の時間が失われた原因になりません。
そして「私」が、現代で失しなわているものを、過去と現代の比較で述べているのが、この文章全体の要旨です。問四は、本文全体を踏まえて説明せよ、と問うています。そのため歴史的なことを視野に入れてなければ、適切な解答にならないのでしょう。
論拠はどこにあるのでしょうか。
見えませんでしたか?
傍線部中の それ は直前部の 安らかな生の時間 を指します。あなたの歴史観だのなんだのはそれを修飾する語に過ぎません。
では、伝説的時間とはなんでしょうか。
伝説とは、今現実に無いということです。つまり、この設問では失われた原因を尋ねています。紡がれてきた時間の重要性ではありません。
これが理解できたなら、TJさんの指摘が正しいものであったことが分かるでしょう。
「安らかな生の時間」が、前半で文中の「私」が述べている死生観です。伝説的時間とはまさに過去のことです。私の勝手な歴史観ではありません。筆者が過去と現在を比較しているのです。
論拠はどこにあるのでしょうか。
見えませんでしたか?
確かに忘れたこと は解答に盛り込むべき要素ですが、あなたの解答例は羨ましいという感情が主な原因として書かれており忘れたことについて何の言及もありません。
論理が一致していません。
と
忘れる
の主語は一致しますか?
何故羨ましい感情が歴史観の喪失の原因足りうるのでしょうか?
なんども言いますが、「羨ましい」は文中の「私」の思いです。その理由は、それが現代では失われているからです。それを限られた時数の中で述べるので、っどこに重点を置くかは解答者によって異なるでしょう。
明日の朝早いのは事実です。事実を言って「逃げる」と言うのですか。逃げるなら、あなたのコメントを認証したりしません(笑)
失礼ですよ。
ブログの管理者はあくまで佐々木先生です。
佐々木先生は懐深く応えてくれていますが、質問させてもらっているのはあなたですよ。この議論を見て勉強になっている人たちもいます。そのためにも内容がどうであれ、失礼のない対応をお願いいたします。
佐々木先生へ
水をさしてすいません。
温かい言葉をありがとうございます。
昨日・今日とインターネットをできる環境になかったため、認証と返事が遅れました。最近は仕事が多岐にわたるため、東大入試に関する記事を上げることができず、上げたとしても大人の書いた凝ったものではなく、受験生が受験の場で書ける練習となるものにしています。そこで、こうしたらいいのではないかという指摘があるのも当然です。そのため議論にはできるかぎり対応しています。そのためにかえって、みなさんには御心配をかけてしまったようです。
温かい言葉を励みに、できるかぎり東大入試関連の記事を上げることにします。今後も訪問していただけると、うれしいです。
「受験生が試験で書ける」ものとはむしろかけ離れてると感じます。
また、受験生が書けるものとかけ離れているとの指摘をありがとうございます。今後とも、様々なレベルで書けるように努力していきますね。
⑴「段差」に傍線が引かれており、その段差が 老⇔若 の対を帯びている以上その要素はいれるべきではないのか。
⑵「見守られていると思える」背景が要旨である以上そこまで遡らないのはいかがなものか。
⑷「なぜそう思うのか」を問われて解答に感情を組み込むのは何も要求に答えることになっていない。
突然で恐縮ですが、これらの点について思うところなどがあればご教示いただけませんか。他の方で口喧嘩のようなコメントが散見されましたが、僕は純粋に学習目的で、かつ喧嘩を売るようなつもりはないということを先に断らさせてください。よろしくどうぞお願い致します。