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zoom RSS 2008年東大前期・国語第4問「演技するということ」【予告編】

<<   作成日時 : 2009/02/19 22:42   >>

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 二流の役者のセリフに取り組むと、ほとんど必ず、まずそのセリフを吐かせている感情の状態を推測し、その感情を自分の中にかき立て、それに浸ろうと努力する。たとえば、チェーホフの『三人姉妹』の末娘イリーナの第一幕の長いセリフの中に「なんだってあたし、今日こんなに嬉しいんでしょう?」(神西清訳)という言葉がある。女優たちは、「どうもうまく『嬉しい』って気持ちになれないんです」といった言い方をする。もっといいかげんな演技者なら、なんでも「嬉しい」って時は、こんなふうな明るさの口調で、こんなふうにはずんで言うもんだ、というパターンを想定して、やたらと声を張り上げてみせる、ということになる。「嬉しい」とは、主人公が自分の状態を表現するために探し求めて、取りあえず選び出して来たことばである。その〈からだ〉のプロセス、選び出されてきた〈ことば〉の内実に身を置くよりも、まず「ウレシソウ」に振舞うというジェスチュアに跳びかかるわけである。
 もっと通俗的なパターンで言うと、学校で教員たちがよく使う「もっと感情をこめて読みなさい」というきまり文句になる。「へえ、感情ってのは、こめたり外したりできる鉄砲のタマみたいなものかねえ」というのが私の皮肉であった。その場にいた全員が笑いころげたが、では、感情とはなにか、そのことばを言いたくなった事態にどう対応したらいいのか、については五里霧中なのである。
 この逆の行為を取上げて考えるともう少し問題がはっきりするかも知れない。女優さんに多い現象だが、舞台でほんとうに涙を流す人がある。私は芝居の世界に入ったばかりの頃初めてこれを見てひどく驚き、同時に役者ってのは凄いものだと感動した。映画『天井桟敷の人々』の中に、ジャン・ルイ・バロー演じるパントマイム役者に向って、「役者はすばらしい」「毎晩同じ時刻に涙を流すとは奇蹟だ」と言う年寄りが出てくる。若い頃はナルホドと思ったものだが、この映画のセリフを書いている人も、これをしゃべっている役柄も役者も、一筋縄ではいかぬ連中であって、賛嘆と皮肉の虚実がどう重なりあっているのか知れたものではない
 数年演出助手として修業しているうちにどうも変だな、と思えてくる。実に見事に華々しく泣いて見せて、主演女優自身もいい気持ちで楽屋に帰ってくる――「よかったよ」とだれかれから誉めことばが降ってくるのを期待して浮き浮きとはずんだ足取りで入ってくるのだが、共演している連中はシラーッとして自分の化粧台に向っているばかり。シーンとした楽屋に場ちがいな女優の笑い声ばかりが空々しく響く、といった例は稀ではないのだ。「なんでえ、自分ひとりでいい気持ちになりやがって。芝居にもなんにもなりやしねえ」というのがワキ役の捨てゼリフである。
 実のところ、ほんとに涙を流すということは、素人が考えるほど難しいことでもなんでもない。主人公が涙を流すような局面まで追いつめられてゆくまでには、当然いくつもの行為のもつれと発展があり、それを役者が「からだ」全体で行動し通過してくるわけだから、リズムも呼吸も昂っている。その頂点で役者がふっと主人公の状況から自分を切り離して、自分自身がかつて経験した「悲しかった」事件を思いおこし、その回想なり連想に身を浸して、「ああ、なんて私は哀しい身の上なんだろう」とわれとわが身をいとおしんでしまえば、ほろほろと涙がわいてくるのだ。つまりその瞬間には役者は主人公の行動と展開とは無縁の位置に立って、わが身あわれさに浸っているわけである。このすりかえは舞台で向いあっている相手には瞬間に響く。「自分ひとりでいい気になりやがって」となる所以である。
 本来「悲しい」ということは、どういう存在のあり方であり、人間的行動であるのだろうか。その人にとってなくてはならぬ存在が突然失われてしまったとする。そんなことはありうるはずがない。その現実全体を取りすてたい、ないものにしたい。「消えてなくなれ」という身動きではあるまいか、と考えてみる。だが消えぬ。それに気づいた一層の苦しみがさらに激しい身動きを生む。だから「悲しみ」は「怒り」ときわめて身振りも意識も似ているのだろう。いや、もともと一つのものであるかも知れぬ。
 それがくり返されるうちに、現実は動かない、と少しずつ〈からだ〉が受け入れていく。そのプロセスが「悲しみ」と「怒り」の分岐点なのではあるまいか。だから、受身になり現実を否定する闘いを少しずつ捨て始める時に、もっとも激しく「悲しみ」は意識されて来る。
 とすれば、本来たとえば悲劇の頂点で役者のやるべきことは、現実に対する全身での闘いであって、ほとんど「怒り」と等しい。「悲しみ」を意識する余裕などないはずである。ところが二流の役者ほど「悲しい」情緒を自分で十分に味わいたがる。だからすりかえも起こすし、テンションもストンと落ちてしまうことになる。「悲しい」という感情をしみじみ満足するまで味わいたいならば、たとえば「あれは三年前……」という状態に身を置けばよい。
 こういう観察を重ねて見えてくることは、感情の昂まりが舞台で生まれるには「感情そのもの」を演じることを捨てねばならぬ、ということであり、本源的な感情とは、激烈に行動している〈からだ〉の中を満たし溢れているなにかを、外から心理学的に名づけて言うものだ、ということである。それは私のことばで言えば「からだの動き」=actionそのものにほかならない。ふつう感情と呼ばれていることは、これと比べればかなり低まった次元の意識状態だということになる。
                      (竹内敏晴『思想する「からだ」』)

設問
(一)「『ウレシソウ』に振舞うというジェスチュアに跳びかかる」(傍線部ア)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(二)「賛嘆と皮肉の虚実がどう重なりあっているのか知れたものではない」(傍線部イ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(三)「自分ひとりでいい気持ちになりやがって。芝居にもなんにもなりやしねえ」(傍線部ウ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(四)「『感情そのもの』を演じることを捨てねばならぬ」(傍線部エ)とあるが、どういうことか、説明せよ。


(一)
【解説】
傍線部アは「『ウレシソウ』に振舞うというジェスチュアに跳びかかる」は段落最後の文であり、当段落のまとめの文の中にある。この傍線部アの直前を見ると、「その〈からだ〉のプロセス、選び出されてきた〈ことば〉の内実に身を置くよりも」とあることから、二流の女優と「もっといいかげんな演技者」を対立させた上で、もっといいかげんな演技者を説明している箇所を要約するといい。二流の女優は嬉しい気持ちになろうとするが、いい加減な演技者は、嬉しいときに見られるパターン的に見られる口調や表情で演技するということである。直前の「取りあえず選び出して来たことば」や傍線部の「ジェスチュア」がまさに表面的な演技であることを示している。
【解答例】
意味を深く理解しようとしないで、安易にパターン化された嬉しさを表面的に演じてしまうこと。

(二)
【解説】
傍線部イ「賛嘆と皮肉の虚実がどう重なりあっているのか知れたものではない」は、「女優さんに多い現象だが、舞台でほんとうに涙を流す人がある」について述べた段落で、「この映画のセリフを書いている人も、これをしゃべっている役柄も役者も、一筋縄ではいかぬ連中」とある文章に続いているので、賞嘆ではなく皮肉に重きがあるだろう。そういう目で、次の段落を見るとやはり「共演している連中はシラーッとして自分の化粧台に向っているばかり」とあり、皮肉に重点があることが確認できる。
【解答例】
泣く演技をした女優は役柄を演じきったと思い込んでいるが、周囲の役者はそれを本当の演技であるとは見ていないこと。

(三)
【解説】
次の段落に、傍線部ウ「自分ひとりでいい気持ちになりやがって。芝居にもなんにもなりやしねえ」の理由が述べられている。女優が本当に涙を流したとしても、自分の身の上にあった悲しい出来事を思い出して泣いているのであり、泣いた瞬間、実は役柄とは遊離してしまっている。役柄になりきって泣いているのではなく、むしろ自分の思い出で涙を流すという「すりかえ」は、同じ舞台に上がっている相手役や脇役にはばれている。これが、「自分ひとりでいい気になりやがって」と相手役や脇役が思う理由である。
【解答例】
泣く芝居は「悲しみ」を演じているだけで、その役柄を全身全霊で演じているわけではないということ。

(四)
【解説】
傍線部エ「『感情そのもの』を演じることを捨てねばならぬ」は段落最初の文であり、直後の「本源的な感情とは、激烈に行動している〈からだ〉の中を満たし溢れているなにか」が使える。つまり本源的な感情は、感情を演じて表現できるものではなく、全身全霊で行動して激昂したときにほとばしるものである。また段落最初の文は前段落を受けているから、前段落の内容も使える。「本来たとえば悲劇の頂点で役者のやるべきことは、現実に対する全身での闘いであって、ほとんど『怒り』と等しい。『悲しみ』を意識する余裕などないはずである」を使うことができるだろう。さらにそれに続く「ところが二流の役者ほど『悲しい』情緒を自分で十分に味わいたがる。だからすりかえも起こすし、テンションもストンと落ちてしまうことになる」を加味すればいい。これで、本文全体の内容が理解できるだろう。
【解答例】
感情とは身体から溢れ出るものであり、「悲しみ」を演じるのではなく、全身全霊で打ち込むことでのみ表現できるということ。

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