佐々木哲学校

アクセスカウンタ

zoom RSS 2007年東大前期・国語第1問「芸術ジャンル――分類の可能性」【予告編】

<<   作成日時 : 2009/01/22 22:03   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 8 / トラックバック 0 / コメント 2

創作がきわだって個性的な作者、天才のいとなみであること、したがってそのいとなみの結実である作品も、かけがえのない存在、唯一・無二の存在であること、このことは近代において確立し、現代にまでうけつがれているaツウネンといっていい。一方、このいとなみと作品のすべてが、芸術という独自の、自立的な文化領域に包摂されていることも、同じように近代から現代にかけての常識だろう。かけがえのない個性的ないとなみと作品、それらすべてをつつみこむ自立的な――固有の法則によって完全にbトウギョされた――領域。しかしよく考えてみれば、このふたつのあいだには、単純な連続的関係は成立しがたい、というより、むしろ対立する、あるいはあい矛盾する関係のみがある、というべきであろう。したがって近代的な芸術理解にとっては、このふたつの対立し矛盾する――個と全体という――項を媒介し、連続的な関係をもたらすものとして、さまざまなレヴェルの集合体(l’ensemble)を想定することが、不可欠の操作であった。ア芸術のジャンルが、近代の美学あるいは芸術哲学のもっとも主要な問題のひとつであったのもむしろ当然だろう。個別的ないとなみや作品と全体的な領域のあいだに、多様なレヴェルの集合体(ジャンル)を介在させ、しかもそれぞれのジャンルのあいだに、一定の法則的な関係を設定することによって、芸術は、ひとつのシステム(体系)としてとらえられることになるだろう。近代の美学において、「芸術の体系」がさまざまな観点から論じられたのも、これまた当然であった。
 ジャンルは、個々の作品からなる集合体であると同時に、個々の作品をその中に包摂し、規定する全体としての性質をももつ。個々の作品は、あるジャンルに明確に所属することによって、はじめて芸術という自立的な領域の中に位置づけられるが、この領域の自立性こそが、芸術に特有の価値(文化価値)の根拠であるのだから、ジャンルへの所属は、作品の価値のひとつの根拠ともなるだろう。ある作品のジャンルへの所属が曖昧であること、あるいはあるジャンルに所属しながら、そのジャンルの規定にそぐわないこと――ジャンルの特質を十分に具体化しえていない――、それは、ともに作品の価値をおとしめるものとして、きびしくいましめられていた。
 近代から区別された現代という時代の特徴としてしばしばあげられるものに、あらゆる基準枠ないし価値基準の、ゆらぎないし消滅がある。芸術も、その例外ではない。イかつては、芸術の本質的な特徴として、その領域の自立性と完結性があげられ、とくに日常的な世界との距離ないし差異が強調されることがおおかった。しかし現在、たとえば機械的な媒介をとおして大量にcルフするイメージなどのために、その距離や差異は解消の傾向にあるといわれる――芸術の日常化、あるいは日常の芸術化という現象――。芸術の全体領域そのものが曖昧になっているとすれば、その内部に想定されるジャンルのあいだの差異も、解消しつつあるのだろうか。たしかに、いまの芸術状況をみれば、かつてのような厳密なジャンル区分が意味を失っていることは、いちいち例をあげるまでもなくあきらかである。理論の面でも、芸術ジャンル論や芸術体系論が以前ほど試みられないのも、むしろ当然かもしれない。しかしすべての、あらゆるレヴェルのジャンルが、その意味(意義)を失ったのではないだろう。無数の作品が、おたがいにまったく無関係に並存しているのではなく、なんらかの集合をかたちづくりながら、いまなお共存しているのではないだろうか。コンサート・ホールでの演奏を中止し、ラジオやテレヴィジョンあるいはレコードという媒介を介在させて、自分と聴衆の直接的な関係を否定したとしても――聴衆にたいして、自分を「不在」に転じたとしても――、グレン・グールド(Glenn Gould, 1932-82)を、ひとはすぐれたピアニスト(音楽家)とよぶのだし、デュシャン(Marcel Duchamps, 1887-1968)の「オブジェ」のおおくは、いま美術館に保存され、陳列されている。変わったのは、おそらく集合体の在り方であり、集合相互の関係とそれを支配する法則である。たとえば、プラトンに端を発し、ヘーゲルなどドイツ観念論美術でその頂点に達した感のある芸術の分類、超越的ないし絶対的な原理にもとづいて、いわば「うえから」(von oben)芸術を分類し、ジャンルのあいだに一定の序列をもうけるという考え方は、すくなくとも現在のアクチュアルな芸術現象に関しては、その意義をほぼ失ったといっていいのだろう。たしかにm「分類」は近代という時代を特徴づけるものだったかもしれないが、理論的ないとなみが、個別的、具体的な現象に埋没せずに、ある普遍的な法則をもとめようとするかぎり、「分類」は――むしろ、「区分」といったほうがいいかもしれないが――ウ欠かすことのできない作業(操作)のはずである
 解説書風のきまり文句を使っていえば、グールドもデュシャンも、ともに「近代の枠組みをこえようとする尖鋭ないとなみ」という点で、同類――同じ類(集合)に区分される――ということになるが、にもかかわらず、グールドが音楽家であり、デュシャンが美術家であることを疑うひとはいないだろう。演奏するグールドの姿ヴィデオ・ディスクで見ることはできるが――そしてこのことは、グールドの理解にとっては、その根本にかかわることなのだが――、それとともに、録音・再生された彼の「音」を聞かなければ、彼特有のいとなみにふれたことにはならないだろう。モニターの画面を消して、音だけに聞きいるとき、いくぶんかグールドの意図からははなれるにしても、そのいとなみにふれていることはたしかである。「聞く」という行為、あるいは「聴覚的」な性質を、彼のいとなみとその結果(作品)の根本と見なすからこそ、ためらわず彼を音楽家に分類するのだろう。同じように、「見る」という行為と「視覚的」な性質が、デュシャンを美術家に分類させるのだろう。社会構造がどのように変化し、思想的枠組みがいかに変動したとしても、「感性」にもとづき、「感性」に満足を与えることを第一の目的とするいとなみが――それを芸術と名づけるかどうかにはかかわりなく――ひとつの文化領域をかたちづくることは否定できないだろうし、その領域が、エ「感性」の基礎となる「感覚」の領域にしたがって区分されるのも、ごく自然なことであるにちがいない。ところで、同じ「色彩」という視覚的性質であっても、もちいる画材――油絵具、泥絵具、水彩絵具など――によって、かなりの――はっきりと識別できる――ちがいが生じるだろう。「色彩」という感覚的性質によって区分される領域――絵画――の内部に、使用する画材による領域――油絵、水彩画など――をさらに区分することには、十分な根拠がある。「感覚的性質」と、それを支える物質――「材料」(la matiere, the material)――を基準とする芸術の分類は、芸術のもっとも基本的な性質にもとづいた、その意味で、時と場所の制約をこえた、ふへんてきなものといえるだろう。もちろん、人間の感覚は、時と場所にしたがって、あきらかに変化を示すものだし、技術の展開にともなって新しい「材料」が出現することもあるのだから、この分類を固定されたものと考えてはならないだろう。もっとも普遍的であるとともに、歴史の中で微妙な変動をみせるこのジャンル区分は、芸術の理論的研究と歴史的研究のいずれにとっても重要な意義をもつかもしれない。あるいは、従来ともすれば乖離しがちであった理論と歴史的研究を、新たなdユウワにもたらす手がかりを、ここに求めることすら可能なのかもしれない。個別的な作家や作品は、実証的な歴史的研究の対象となるだろうし、本質的ないし普遍的な性質は、いうまでもなく理論的探究の対象だが、個別と普遍を媒介する――個別からなり、個別を包摂する――集合としてのジャンルの把握には、オ厳密な理論的態度とともに、微妙な変化を識別する鋭敏な歴史的なまなざしが要請されるにちがいない。いずれにしても、近代的なジャンル区分に固執して、アクチュアルな現象をeハイジョすることが誤りであるように、分類の近代性ゆえに、ジャンル研究の現在における意義を否定しさることもまちがいだろう。
(浅沼圭司『読書について』)

[注] ○グレン・グールド――カナダのピアニスト。実験的な手法で注目されたが、一九六四年以後コンサート活動を止め、複製媒体のみの表現活動を行った。
○デュシャン――マルセル・デュシャン。フランスの美術家。「美術」という概念そのものを問い直す、多くの前衛的作品を発表した。

設問
(一)「芸術のジャンルが、近代の美学あるいは芸術哲学のもっとも主要な問題のひとつであったのも、むしろ当然だろう」(傍線部ア)とあるが、なぜそのようにいえるのか、説明せよ。
(二)「かつては、芸術の本質的な特徴として、その領域の自立性と完結性があげられ」(傍線部イ)とあるが、どういうことか、説明せよ。
(三)「欠かすことのできない作業(操作)のはずである」(傍線部ウ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。
(四)「『感性』の基礎となる『感覚』の領域にしたがって区分される」(傍線部エ)とあるが、どういうことか、説明せよ。
(五)「厳密な理論的態度とともに、微妙な変化を識別する鋭敏な歴史的まなざしが要請される」(傍線部オ)とあるが、どういうことか、全体の論旨に即して一〇〇字以上一二〇字以内で述べよ。(句読点も一字として数える。なお採点においては、表記についても考慮する。)
(六)a ツウネン  b トウギョ  c ルフ  d ユウワ  e ハイジョ


【説明&解答例】
(一)
受験生解答 個としての作品と全体としての芸術が対立するものであるがために、それらを媒介するジャンルが必要だったから。
解説&解答例 傍線部アは、段落途中に理由もなく登場する文章であるため、それ以後にその理由が描かれている。また、段落の内容は次の段落の最初の文でまとめられているものであり、ここでも次の段落の最初の文「ジャンルは、個々の作品からなる集合であると同時に、個々の作品をそのなかに包摂し、規定する全体としての性質をもつ」は利用できる。「全体と個は対立して見えるが、作品はジャンルに分類されることで芸術と見なされ、芸術はジャンルを媒介として作品の集合となるから。」と、まとめていくといい。個と全体は対立するだけではなく、相互に規定しあっているということを記す必要がある。

(二)
受験生解答 近代には、芸術の枠組がはっきりとしていて、芸術の規定となるジャンルから作品がはみ出すことはなかったということ。
解説&解答例 傍線部イは、あくまで近代と現代における芸術のジャンルのあり方について述べている文章である。近代と現代の区別はついているが、芸術の枠がはっきりしているのは現代も同じ。それが固定的か変動的かが問題になる。「現代以前では、芸術のジャンルは所与のものであり、固定的で変更されない普遍的なものと考えられていた。」と、まとめて行くこと。

(三)
受験生解答 芸術におけるジャンルの違いがなくなってきているとはいえ、作品同士の関連性が全て失われたわけではないから。
解説&解答例 ここで、近代のジャンルのあり方について述べる。傍線部ウは、段落最後の文であり、本段落のまとめであるから、近代芸術におけるジャンルのあり方を述べればいい。「近代ではかつてのジャンルは無意味なものになったが、ジャンルは不要になったのではなく、作品に応じた具体的なものになった。」

(四)
受験生解答 音は耳、絵は目というように、どの感覚を通してその芸術が感性に訴えかけるかによって作品を分類するということ。
解説&解答例 この段落の傍線部エを含む文までの前半をまとめるといい。近代芸術におけるジャンルが何によって決まるのかを述べるということだ。つまり、前の設問で近代芸術のジャンルが具体的なものになったと述べたが、この設問では、どのように具体的になったのかを説明するという問題設定になっている。「近代では芸術は感性にもとづき感覚に満足を与えるものと目的とすると考えられており、ジャンルも感性や感覚によって区分される。」とまとめていく。

(五)
受験生解答 芸術を感覚や材料で区分することは、の最も普遍的な分類仕方だが、変化することもあるので、ジャンルを理解するには、普遍性だけでなく、時代的な変化も考慮しなければならないということ。(88字)
解説&解答例 傍線部オは、最後の段落のまとめであり、文章全体をまとめる内容を書けばいい。「理論的研究はしばしば具体的な作品から乖離してしまうことがあるため、芸術のジャンルを区分するには、理論的厳密性だけではなく、作品を個としてみる歴史的視点も必要になってくるということ。」(90字)とまとめ、これに+αを書いて100字以上にしよう。文末は、「…ということ」でまとめるのが一般的だが、変形してもいい。

(六)
解答 a. 通念 b. 統御 c. 流布 d. 融和 e. 排除

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 8
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
(一)で「とあるが、なぜそのようにいえるのか」と(三)で「とあるが、なぜか」と、同じ理由を問う設問なのに聞き方が違っているのはなぜでしょうか。何か特別な意味があるのでしょうか。他の年でも、「どういうことか」と「どういうことをいおうとしているのか」など注意してみると使い分けがあるのですが、佐々木先生はどう考えますか。
国語が大好き
2010/02/12 20:03
質問ありがとうございます。
国語が大好きとあって、面白いところに気づきましたネ。

設問(一)は筆者の問題提起の〈正当性〉を問うているので、「なぜそのようにいえるのか」という形での質問になっています。

それに対して設問(二)は、傍線部分の〈意味〉を問うています。そのため、解釈を求める形で質問しているのです。

こういうところに気づくと、さらに正確に解答することができます。とてもいい質問をしていただき、ありがとうございます。
佐々木哲
2010/02/13 02:25

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文

恋愛哲学

2007年東大前期・国語第1問「芸術ジャンル――分類の可能性」【予告編】 佐々木哲学校/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる