『葉隠』鍋島氏と佐々木氏

『葉隠聞略』六に「鍋島家の御紋のこと」という記事がある。鍋島家の紋は、元来、目結紋であるという。
 慶長8年(1603)に、隠居後の鍋島直茂が、徳川家康のお召しにより、江戸に上ったときに、御召船の幕に四つ目結紋をつけた。そのため、直茂の隠居分を継承した小城藩の御召船や武具には四つ目結紋が付けられた。
 その後、江戸に滞在していた鍋島勝茂が松平若狭守の酒宴に招かれたとき、若狭守から「鍋島殿の御先祖は佐々木氏であると内々承っている。それならば、御紋は四つ目結のはずである。しかし今は杏葉の紋を使われているが、これはどのような理由があってのことなのか。先陣の功で敵(大友氏)の紋を手に入れたとも承っているが」と尋ねられた。
 勝茂は、「いかにも、杏葉の紋は敵から奪ったもので、佐々木氏伝来の紋は四つ目結紋でござる」と応えたという。
 鎌倉時代最後の隠岐守護佐々木清高は、鎌倉幕府に殉じて、六波羅探題北条仲時とともに近江番場で自害して、佐々木義清流の嫡流で鎌倉幕府評定衆も勤めた隠岐氏は滅亡した。しかし清高の弟信濃守秀清には四子あって、長男が隠岐守清綱であり、清綱の子清定が京都郊外の長岡に居住して長岡三郎と称したという。長岡氏は清定・清経・経定・経秀と続き、経秀が子経直とともに千葉氏を頼って肥前国に下向し、肥前国佐賀郡鍋島村に移住して鍋島と名乗ったという。
 鍋島氏ははじめ千葉氏に属したが、のちに龍造寺氏に属したという。あるとき少弐教頼が大内氏に敗れて龍造寺氏を頼り、肥前佐嘉に滞在している。このとき経直は教頼に娘を妾に差し出し、二人の間に男子ができたという。そののち応仁2年(1468)に教頼が戦死すると、経直はその男子を養育して家を譲った。これが清直であり、ここから鍋島氏は藤原氏を称するようになったという。清直はのちに経房と名乗り、少弐氏系の鍋島氏系図はこの経房を直接の先祖とする。こうして宇多源氏鍋島氏が、少弐庶流鍋島氏になったと考えられる。
 『葉隠聞略』六では、鍋島勝茂と松平若狭守の会話に続けて、少弐氏の寄掛目結紋と佐々木氏の四つ目結紋の違いについて述べ、さらに佐々木氏の正統について述べられている。
佐々木氏の正統の本家に伝わる系図は、正しい嫡子の末だという近江国のある浪人が所持していて、金泥の巻きと呼ばれているという。この人物は、浪人の身ながらも朝廷から諸大夫に任じられているようで、朽木殿・京極殿は、実は庶子の家筋だという。
 これは佐々木氏郷の事績と一致する。近江守護佐々木六角氏の子孫という氏郷は、兵部少輔・中務少輔・中務大輔を歴任した諸大夫であり、沙沙貴神社所蔵佐々木系図によれば、後水尾院により院昇殿を許されていたという。
 一般に氏郷は学者沢田某と同一人物と考えられ、現在の偽系図作者沢田源内像が形成されているが、学者沢田某は承応年間に水戸徳川家への仕官を失敗したのちに、没している。その後も活動して元禄初年に没した氏郷とは、明らかに別人である。
 同時代の記録『京極家臣某覚書抜萃』によれば、氏郷は同じく近江守護佐々木氏の子孫である讃岐丸亀藩主京極高豊と親交があり、高豊の子息を養子に迎えている。また相国寺九九代愚渓等厚や一〇〇代住持如舟妙恕も氏郷と親交があり、とくに如舟妙恕は氏郷が著した天竜寺所蔵『夢想国師俗譜』の奥書を記している。当時の人々は氏郷を佐々木六角氏の子孫と認めていた。
 『葉隠』は伝聞ではあるものの、佐々木氏郷の生存当時を伝える資料と認められよう。

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この記事へのコメント

道下次郎熊助
2007年12月29日 12:22
 苗字を敵から奪うのは聞いたことありますが、家紋を敵から奪い使用するのは初耳であります。
 また、浪人ながら朝廷より諸大夫を任じられる佐々木(六角)氏郷の存在も驚きです。
 稲場正則も疑うはずです。
道下熊助
2007年12月29日 12:41
 佐々木氏の家紋は、九条家由来のものと、先生の著書にありますが少弐氏の家紋の由来も藤原氏由来でしょうか?
 また、鍋島氏が藤原氏を称するなりいきが、来年の大河ドラマ「篤姫」にでる小松帯刀の家、小松氏(実は、小松家は桓武平姓禰寝家の嫡流で始祖平重盛が小松右大臣と呼ばれていたため)が桓武平姓を名乗るのに似ていますね。この場合は平重盛の子孫が建部氏の婿養子になり建部姓から平氏に
替えてますが。
弾正少弼
2019年10月20日 11:45
隠岐守護佐々木清高は、鎌倉幕府に殉じて、六波羅探題北条仲時とともに近江番場で自害したため、鎌倉幕府評定衆を勤めた隠岐氏の嫡流は途絶えた(1333年)。しかし、清高の弟信濃守秀清には四子あった。その一人である隠岐入道自勝は京極道誉が出雲・隠岐の守護になった時に隠岐守護代となった。(隠岐秀清と京極道誉はいとこ同士)また、もう一人は長男で隠岐守清綱である。佐賀藩主である鍋島家の家伝によると、清綱の子清定が京都郊外の長岡に居住して長岡三郎と称した。この長岡三郎から数えて4代目が鍋島氏の初代である。(以上、佐々木哲先生のご研究を参照)鍋島氏の初期の当主が「清」、「経」を通字として用いている。これは、隠岐氏の通字でもあり、上記の家伝を支持している。ところで、江州佐々木南北諸士帳によると、近江の坂田郡長岡に隠岐五郎左衛門がいる。(同じく、長岡に京極加賀守宗懸がいる。)近江の隠岐氏の存在は注目に値する。隠岐から移住した可能性があるからである。鍋島氏の家伝において、先祖が居住した「京都郊外の長岡」が誤伝で、「近江の長岡」が正しいのであれば、近江の隠岐氏は、隠岐から移住したことの裏づけとなる。上平寺城の京極氏館内に尾木(隠岐)屋敷がある。隠岐守護が京極氏から山名氏に変わった後、隠岐氏は近江に移住し、義清流の命脈を保ちつつ、京極氏の一門衆として厚遇されたと考えられる。そして、京極高詮が出雲・隠岐の守護となった時に、高詮は、隠岐五郎左衛門を出雲に派遣した。(1392年、明徳記)その後、隠岐五郎左衛門は隠岐守護代として再起を果たしたと考えられる。隠岐の守護代は代々五郎を名乗っている。隠岐国府尾城の最後の城主は佐々木少輔五郎光清(1583年没)である。なお、隠岐五郎左衛門が京極秀重であるとする説の根拠は、後太平記のようである。