ピーちゃん大往生と来世観(改訂版)

 ピーちゃんの大往生は、2006年東大前期試験の国語第一問「来世観」を記事にした直後であり、死について考えるのに、ちょうどいい機会になった。
 セキセイインコというと短命なイメージがあるかもしれない。実際にペットで飼われているセキセイインコの平均寿命は8年ぐらい。だけど大切に飼えば、13歳まで生きるし、もっと生きることもある。
 ときには、病気のヒナを買わされてしまい、ヒナのうちに死んでしまうこともある。わたしも病気のヒナを買ったことがある。しかし、ヒナには罪はない。むしろ、わたしたちを頼るヒナがとても愛おしく思えて、最後まであきらめずに世話をした。
 そんな気持ちでヒナと接したことで、そのヒナは今でも記憶に残っている。そんな経験の積み重ねが、ピーちゃんの長寿に活かされた。そして、またピーちゃんの大往生を、ちょうど「来世観」をテーマにしたばかりだったので、ネット上に記録することができた。

 セキセイインコは、とても安く、初心者が飼うのに適したペットだ。しかし、安いとうことは、買ったときの価格よりも、治療費のほうが高いということだ。健康保険がないのだから、治療費はまるまる全額かかってしまう。それでも、病気になったら、きちんと病院に連れていってほしい。いい思い出ができれば、治療費も高いとは思わないはずだ。
 粗末に飼っていたら、きっと記憶に残ることもなく、あなた自身お金を無駄遣いしたと思うだろう。インコがかわいそうだが、あなたもかわいそうだ。生きていた証とは、誰かにとってのかけがえのない存在になること。あなたは、かけがえのない存在になる機会を、自ら放棄したことになるからだ。
 また、今まで沢山のインコを飼った経験があったからといって、それが全てのインコに当てはまるとはいえない。それぞれのインコがそれぞれ個性を持っている。目の前のインコにあわせた対応をしなければ、目の前のインコとの大切な関係を築くことができない。
 目の前のインコとの大切な関係を築くためにも、あまり多くのことを期待してはいけない。テレビに出てくるような芸のできるインコは少ない。少ないからこそ、テレビに出られる。しかも、テレビに出てくるインコも、テレビ・カメラの前ではいつものような芸はできない。インコは、とても繊細で臆病だ。
 わたしたちにとっては大したことではなくても、小さな体のインコにとっては大事件だ。ちょっと環境が変わっただけでも、インコは緊張する。いつもと違う人たちがいるだけで緊張する。カメラを向けても緊張する。大声を上げたても緊張する。家族がケンカしても緊張する。もしかしたら、それが原因でインコは心を閉ざしてしまうかもしれない。
 信頼関係があってこそ、インコは懐く。こちら側がかわいがれば、それに応じてくれる。しかし、そんな信頼関係がなければ、インコもなつかない。まずは大きくて強い者が、相手を愛しむ。そうでなければ、か弱い者が心を開くことはない。
 こちらが愛していれば、インコもそのインコなりの愛情表現をする。自分勝手な期待をかけることは、こちらの我がままを相手に押し付けるということだ。
  飼い主が謙虚になるためには、病院で叱られるといい。専門家に怒られれば、いかに自分がインコに対して無知でわがままだったかが分かる。自分が相手に対して無知だったのに、相手に多くのことを求めすぎていたことに気づく。勘違いな愛情は、愛情とはいえない。
 そして、最後までしっかりと面倒を見てほしい。相手の愛情を裏切らないでほしい。寂しい思いをさせないでほしい。しっかりと愛情で包み込めば、インコにとって、あなたはかけがえのない存在になり、また、あなたの心の中にいつまでも生きることができる。そのような信頼関係が、死を乗り越える方法になる。
 もちろん、死んだときは思いっきり泣いた方がいいと思う。その悲しみの分だけ優しくなれるし、優しくなれれば、大切なものとの信頼関係も永遠のものになるから。大切なものがなくなったときの喪失感は、お互いに信頼関係が築けたという証拠だ。だから、思いっきり泣いた方がいい。
 でも、自分まで衰弱してしまったら、死んだ相手との信頼関係をこの世で維持できる者がいなくなり、なくなった者への恩返しができなくなる。なくなった者のためにも、自分がしっかりと生きて、心の中で相手を生かしつづけることが大切だ。そのような心の中で生きていくことの連鎖が、社会の営みであり、歴史であると思う。

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この記事へのコメント

2008年03月20日 20:12
インコの話が歴史の意義につながるとは、いいエッセイだと思います。なるほど弔うというのは、死者が生者の中で生きることですね。
佐々木哲
2008年03月21日 02:15
コメントありがとうございます。

私が哲学に興味を持ったのは、自分の名前が「哲」であることと、中学生の頃から「死」について考えていたからです。しかし、最近は「絶対的孤独」としての自分の死を考えるのではなく、大切な者失った欠如感について考えるようになりました。しかし、この1人称の死と2人称の死は別のものではないということに、この「ピーちゃんが死んだ」というエッセイに結びついたのです。欠如感という2人称の死を乗り越えることができれば、自分の死も「絶対的孤独」ではないと考えられるようになったのです。

そのような思いのこめられたエッセイを評価していただき、とてもうれしく思います。