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zoom RSS 2006年東大前期・国語第1問「来世観」

<<   作成日時 : 2006/11/12 15:46   >>

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 なにゆえに死者の完全消滅を説く宗教伝統は人類の宗教史の中で例外的で、ほとんどの宗教が何らかの来世観を有しているのであろうか。なにゆえに死者の存続がほとんどの社会で説かれているのか。答えは単純である。(ア)死者は決して消滅などしないからである。親・子・孫は相互に似ており、そこには消滅せずに受け継がれていく何かがあるのを実感させる。失せることのない名、記億、伝承の中にも、死者は生きている。もっと視野を広げれば、現在の社会は、すべて過去の遺産であり、過去が(a)チンデンしており、過去によって規定されている。この過去こそ先行者の世界である。そもそも、「故人」とか「死んでいる人」という表現自体が奇妙である。死んだ人はもう存在せず、無なのであるから。ということは、こうした表現は、死んだ人が今もいることを指し示している。先行者は生物学的にはもちろん存在しないが、社会的には実在する。先行者は今のわれわれに依然として作用を及ぼし、われわれの現在を規定しているからである。たとえば某が二世紀前にある家を建て、それを一世紀前に曾祖父が買い取り、そこに今自分が住んでいるという場合、某も曾祖父も今はもう亡いにもかかわらず、彼らの行為がいまなお現在の自分を規定している。先行者がたとえまったくの匿名性の中に埋没していようとも、先行者の世界は(b)ゲンゼンと実在する。この意味で、死者は単なる思い出の中に生きるのとはわけが違う。死者は生者に依然として働きかけ、作用を及ぼし続ける実在であり、したがって死者を単なる思い出の存在と見なすことは、時として人々に違和感を醸し出す。人々は死者を実体としては無に帰したと了解しつつも、依然として実体のごとく生きているかのように感じるのは、そのためである。
 名、記憶、伝統、こうした社会の連続性をなすものこそ社会のアイデンティティを構成するのであり、社会を強固にしてゆく。言うまでもなくそれは個人のアイデンティティの基礎であるがゆえに、それを安定させもする。したがって、個人が自らの生と死を安んじて受け容れる社会的条件は、杜会のこうした連続性なのである。
 人間の本質は社会性であるが、それは人間が同時代者に相互依存しているだけではなく、幾世代にもわたる社会の存続に依存しているという意味でもある。換言すれば、生きるとは社会の中に生きることであり、それは死んだ人間たちが自分たちのために残し、与えていってくれたものの中で生きることなのである。その意味で、社会とは、生者の中に生きている死者と、生きている生者との共同体である。
 以上のような過去から現在へという方向は、現在から未来へという方向とパラレルになっている。(イ)人間は自分が死んだあともたぶん生きている人々と社会的な相互作用を行う。ときにはまだ生まれてもいない人を念頭に置いた行為すら行う。人間は死によって自己の存在が虚無と化し、意味を失うとは考えずに、死を越えてなお自分と結びついた何かが存続すると考え、それに働きかける。その存続する何かに有益に働きかけることに意義を見出すのである。ここで二つの点が大事である。まず、それは虚妄でもなければ心理的(c)ヨウセイでもないということである。それは自分が担い、いま受け渡そうとしている社会である。第二に、人ははかない自分の名声のためにそうしているのではないということである。むろん人問は価値理念と物質的・観念的利害とによって動く。したがってここでは観念的利害が作用してもいるのであろうが、それは価値理念なしには発動しない。ここで作用している価値理念とは、「犠牲」ということである(後述)。
 社会の連帯、つまり現成員相互の連帯は必ず表現されなければならない。さもなくばそれは意識されなくなり、弱体化してしまう。まったく同じことがもう一つの社会的連帯、つまり現成員と先行者との連帯にも当てはまる。この連続性が現にあるというだけでは足りない。それは表現され、意識可能な形にされ、それによって絶えず覚醒されるのでなければならない。この縦の連続性=伝統があってこそ、社会は真に安定し、強力であり得る。それゆえ、先行者は象徴を通じてその実在性がはっきり意識できるようにされなければならない。(ウ)先行者の世界は、象徴化される必然性を持つということである。他方、来世観が単なる幻想以上のものであるなら、何らかの実在を象徴しているのでなければならない。来世観は、実在を指示する必然性を持つということである。これら二つの必然性は、あい呼応しているように思われる。
 人類の諸社会で普遍的に非難の対象となることの一つは、不可避の運命である死をひたすら呪ったり逃れようとする態度であり、あるいはそうした運命のゆえに自暴自棄となり頽廃的虚無主義に落ち込むことである。どのような杜会でも、人間は、老いて行くことを潔く受け容れるように期待されている。死がいかんとも避けがたくなったときに、その運命に(d)ショウヨウとして従うことを期待されている。それは無論、死ねばよいと思われているのとはまったく異なる。悲しみと無念の思いにもかかわらず、そうした期待があるということなのである。ここでは事の善し悪しは一切おいて、なにゆえにそうした普遍性が存在するのかを考えてみたい。それは来世観の機能と深い関わりがあるように思われるからである。
 年老いた個体が順次死んでいき、若い個体に道を譲らないなら、集団の存続は危殆に瀕する。老いた者は、後継者を育て、自分たちが担っていた役割を彼らが果たすようになるのを認めて、退場していく。これが人間杜会とそこに生きる個人の変わらぬ有りようである。その場合、積極的に死が望まれ求められるのではない。人は死を選ぶのではなく、引き受けざるを得ないものとして納得するだけであり、生を諦めるのである。それは他者の生を尊重するがゆえの死の受容である。これは、他者の命のために自分の命を失う人間の勇気と能力である。たとえ客観的には杜会全体の生がいかに脆い基盤の上にしか据えられていなくとも、また主観的にそのことが認識されていても、それでも(エ)他者のために死の犠牲を払うことは評価の対象となる。これこそ宗教が死の本質、そして命の本質を規定する際には多くの場合に前面に打ち出す「犠牲」というモチーフである。それは、全体の命を支えるという、一時は自らが担った使命を果たし終えたとき、他の生に道を譲り退く勇気であり、諦めなのである。それは、自らの生を何としてでも失いたくない、死の不安を払拭したい、死後にも望ましい生を確保しておきたいという執着の対極である。一方でそうした執着を捨てきれないのが人間であると見ながらも、主要な宗教伝統は、まさにそれを(e)コクフクする道こそ望むべきものとして提示する。このモチーフは、いわば命のリレーとして、先行者の世界と生者の世界とをつないでいる価値モチーフであるように思われる。そうであれば、(オ)先行者の世界に関する表象の基礎にある世俗的一般的価値理念と、来世観の基礎にある宗教的価値理念との間には、通底するないし対応するところがあるように思われる。
                         (宇都宮輝夫「死と宗教」)

〔注〕○アイデンティティ―identity(英語) 時問的、空間的な同一性
    や一貫性。
   ○パラレル―parallel(英語) 並列ないし平行すること。
   ○モチーフ―motif(仏語) 中心思想、主題。

設問(解答枠は(一)〜(四)=13.5センチ×2行)

(一)「死者は決して消減などしない」(傍線部ア)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(二)「人間は自分が死んだあともたぶん生きている人々と社会的な相互作用を行う」(傍線部イ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(三)「先行者の世界は、象徴化される必然性を持つ」(傍線部ウ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(四)「他者のために死の犠牲を払うことは評価の対象となる」(傍線部エ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(五)「先行者の世界に関する表象の基礎にある世俗的一般的価値理念と、来世観の基礎にある宗教的価値理念との間には、通底するないし対応するところがある」(傍線部オ)とあるが、どういうことか。全体の論旨に即して一〇〇字以上一二〇字以内で説明せよ。(句読点も一字として数える。なお、採点においては、表記についても考慮する。)

(六)傍線部a・b・c・d・eのカタカナに相当する漢字を書け。


【解答例】
(一)先行者は現在の私たちに依然として影響を与えているのだから、社会的・文化的には生きているといえる。

(二)自分が死んだ後も、自分は未来の人びとに影響を与え続けるだろうと考えることで、自分の生に意義を見出すということ。

(三)先行者とのつながりを形に残し、忘れないようにすることで、社会はより安定し強力なものになるから。

(四)自分の後継者を育てることが先行者の使命であり、自らの生に執着しては社会全体の安定にはならないから。

(五)先行者は、死んでもなお現在の私たちに影響を与えており、社会的・文化的には生きているといえる。そこで、自分の死後も自分と結びついた何かが存続すると考え、そこに意義を見出せれば、他者を生かすだけではなく、自分も社会的・文化的に生き続ける。

(六)(a)=沈殿 (b)=厳然 (c)=要請 (d)=従容 (e)=克服


【解き方】
(一)本文の問題提起「なにゆえに死者の完全消滅を説く宗教伝統は人類の宗教史の中で例外的で、ほとんどの宗教が何らかの来世観を有しているのであろうか。なにゆえに死者の存続がほとんどの社会で説かれているのか。」に対する回答が、傍線部ア「死者は決して消減などしない」だから、その説明は後にある。設問(一)なのだから、あまり後ろではない個所がいい。第一段落の中にあるはずだ。そうすると「先行者は生物学的にはもちろん存在しないが、社会的には実在する。先行者は今のわれわれに依然として作用を及ぼし、われわれの現在を規定しているからである。」という個所が見つかる。これを、自分なりに使うといい。
具体的な説明の文の前後には、必ずまとめの抽象的な文があるから、そのような文章をもとに解答を組み立てるといい文章が書ける。

(二)「過去から現在へという方向」から「現在から未来へという方向」へと話題が推移している冒頭に傍線部イ「人間は自分が死んだあともたぶん生きている人々と社会的な相互作用を行う」があるのだから、その説明は後文に記されているはずだ。実際に「人間は死によって自己の存在が虚無と化し、意味を失うとは考えずに、死を越えてなお自分と結びついた何かが存続すると考え、それに働きかける。その存続する何かに有益に働きかけることに意義を見出すのである。」という文を見つけることができる。これを使って自分の言葉に書き改めればいい。この文が重要であることは、その直後で「ここで二つの点が大事である。」と述べて、さらに説明を付け加えていることで明らかだ。

(三)傍線部ウ「先行者の世界は、象徴化される必然性を持つ」には、「ということである。」という述語で締めくくられている文であり、前文の内容を言い換えた文であると分かる。さらに前文が「それゆえに」で始まるのだから、それ以前に理由が記されているのは明らかだ。傍線部ウの理由を説明するには、そこを自分の言葉でまとめればいい。

(四)傍線部エ「他者のために死の犠牲を払うことは評価の対象となる」は、「たとえ…それでも」につづく文であり、それ以前の内容を強調する内容であるから、段落前半の内容をまとめればいい。とくに「老いた者は、後継者を育て、自分たちが担っていた役割を彼らが果たすようになるのを認めて、退場していく。」という文は、その直後の文で「これが人間杜会とそこに生きる個人の変わらぬ有りようである。」と強められているのだから使える。これを自分なりの言葉で言い換えればいいだろう。
 さらに、傍線部エの後文である「自らの生を何としてでも失いたくない、死の不安を払拭したい、死後にも望ましい生を確保しておきたいという執着の対極である」という内容を加えられれば、完成度が高まる。

(五)傍線部オ「先行者の世界に関する表象の基礎にある世俗的一般的価値理念と、来世観の基礎にある宗教的価値理念との間には、通底するないし対応するところがある」は、課題文の最後にあることでも分かるように、全体のまとめである。「過去から現在へという方向」と「現在から過去へという方向」が、つながっている(「通底するないし対応する」)ということを説明すればいい。手っ取り早く解答したいのであれば、設問(一)から(四)までの解答をつなげればいい。

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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
迷惑コメントがくるということは、それだけ私の主張が正しいということですね。
Re:迷惑コメントさん
2006/12/22 10:50
『迷惑コメント』とは、どのようなコメントであったのでしょうか?興味があるので、できれば教えていただきたいのでお願い致します。

2007/01/05 20:54
同一人物からのコメントで、
@下ネタの連発
A「私は神だ」発言
という内容です。幼稚で、ありがちな内容でしたので、曝す価値もないと思い、削除しました。

相手のプロバイダには連絡しておきました。
佐々木哲
2007/01/05 21:49
社会のために奉公する気持ちは大切ですね。最近の日本人が忘れがちなことですね。
rights
2013/07/03 21:26
社会に奉仕する気持ちがあれば、気持ちがゆったりして、行動もゆったりとやさしくなれるはずです。

自分の死を見守る者がいれば、安心して眠りにつくことができるでしょう。また、自分のことを思い続ける者がいると思えば、やはり安心して眠りにつくことができます。

墓は死者のためにあるのではなく、実は生きる者が安心して眠れるためにあるのです。自分が死んだ後も訪れ者がいるという安心感です。

相手を思いやれないと、視野が狭くなり自分のことばかり考えるので、行動も余裕がなくなり、いつもカリカリした気持ちでいます。そんな人生は楽しくありませんね。

社会奉仕は他人のためではなく、実は自分の幸せにもなるのです。そういう意味では大きな欲です。これを偽善と言ってはいけません。

今の日本人は最も幸福な大きな欲を見失っているのかもしれませんね。

佐々木哲
2013/07/06 00:25

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