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zoom RSS 2006年東大前期・国語第4問「教育問題」

<<   作成日時 : 2006/11/07 12:51   >>

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 産業革命以前の大部分の子どもは、学校においてではなく、それぞれの仕事が行なわれている現場において、親か親代りの大人の仕事の後継者として、その仕事を見習いながら、一人前の大人となった。そこには、同じ仕事を共有する先達と後輩の関係が成り立つ基盤がある。(ア)それが大人の権威を支える現実的根拠であった。そういった関係をあてにできないところに、近代学校の教師の役割の難しさがあるのではないか。つまり学習の強力な動機づけになるはずの職業共有の意識を子どもに期待できず、また人間にとっていちばんなじみやすい見習いという学習形態を利用しにくい悪条件の下で、何ごとかを教える役割を負わされている、ということである。
 中世では、学校においてさえ後継者見習いの機能が生きていた。たとえば、教師がラテン語のテクストを読む作業をする。あるいは文字を使って文書を作る書記の作業をする。それを生徒が傍で見て手伝いながら、読むこと書くことを身につけていく。こういう事態を指して、フィリップ・アリエスは、『〈子供〉の誕生』の第二部「学校での生活」において、中世には学校はあったが、教育という観念がなかったという。これの意味は、単に教授法が未開発だったために目的意識的な働きかけができなかったということではない。中世の生徒が、将来ラテン語を読み、文書を作る職業としての教師=知識人=書記の予備軍であったために、見習いという方式がそれに適合していた、ということである。
 これは逆にいうと、中世の教師は、近代の教師によりも、同時代の徒弟制の親方に似ていることを意味する。中世の教師は、テクストを書き写し、解読し、注釈し、文書を作る人である。その職業を実施する過程の中に後継者を養成する機能が含まれていたということができる。その意味では、(イ)中世の教師は、逆説的にきこえるかもしれないが、教える主体ではなかった。同様に中世の生徒も教えられる客体ではなかった。両者は、主体と客体に両極化する以前の、同じ仕事を追求する先達と後輩の関係にあり、そこには一種の学習の共同体が成立していた。
 後継者見習いが十分に機能しているところでは、教える技術は発達しにくい。まして、教える側の、教えられる側に対する働きかけを、方法自覚的に主題化する教授学への必要性は弱い。現に、教授学者たちが出現するには一七世紀を待たなければならなかった。
 ただし近代の学校においても、先達、後輩の関係が成り立つ場合がある。例えば、現代の代表的モラリストで、典型的な中等教員の一人であったアランは、リセの生徒のときに出会った教師ラニョーに対して、「わが偉大なラニョー、真実、私の知った唯一の神」という最高の賛辞を捧げ、さらに「帰依とは我らが驚異する者に対する愛のことである」というスピノーザの言葉を共感をこめて引用している。そのアランの生徒であった文学者モーロワも、「私が師と仰いだアラン、崇拝してやまないアラン」を讃えるために一冊の本をかいている。
 しかしこの種の師弟関係は、おそらく、書物を読み、書物をかくことを職業とする世界の先達と後輩の間でしか成り立たないであろう。将来、知識人になろうとする生徒、もしくは結果として知識人となった者だけが、教師への帰依を語る記録を残すことになるのではないか。ラニョーは、プラトンとスピノーザのテクスト講読だけを授業の内容とした。アランは、ラテン語と幾何学だけが、人間になるための真の必須科目であると信じていた。そういう教師に、工場の技師や商杜のセールスマン、あるいはふつうの杜会人を志望する生徒が「帰依」するとは考えにくい。
 ラニョーやアランのように「帰依」されることは教師冥利につきる。だから教師はどうしても、子どもの中に自分のミニチュアを見たがる。とりわけ学問好きの教師は、自分と似た学問好きの生徒を依佑ひいきして、しかもそれを正当なことだと考える。教師的人間像を普遍的な理想的人間像であるかのように思いなして、それを子どもにおしつける。そしてそれを受けいれない子どもに、だめな人間というレッテルをはってしまう。しかし、子どもが教師的人間像を受けいれることは、生徒の大部分が教師後継者ではなくなった近代の大衆学校では、ごく限られた範囲でしか通用しない。
 (ウ)教師と生徒の関係のこの難しさに対処するために、近代の教育の諸技術が工夫されたということができるだろう。もちろんそれだけが理由ではない。近代人が、自然に対して方法自覚的に働きかけて、自然を支配しようとする加工主体であること、その近代人の志向が子どもという自然にも向けられた、という理由も見のがすわけにはいかない。しかし、子どもの自発性を尊重しつつ、なお大人が意図する方向へ子どもを導こうとする誘惑術まがいの教育の技術を発達させる動機には、やはり、後継者見習いの関係が成り立ちにくくなったという事情が投影しているように思われる。見習いの機能が生きていた時代には、大人は、たとえ子どもを理解しないままでも、後継者を養成することができた。それとは対照的に、(エ)近代の学校教師は、子どもを社会人に育てあげる能力をほとんど失ったにもかかわらず、いや失ったがゆえに、子どもへの理解を無限に強いられる
                   (宮澤康人「学校を糾弾するまえに」)


設問(解答枠は(一)〜(四)=13.3センチ×2行)

(一)「それが大人の権威を支える現実的根拠であった」(傍線部ア)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(二)「中世の教師は、逆説的にきこえるかもしれないが、教える主体ではなかった」(傍線部イ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(三)「教師と生徒の関係のこの難しさ」(傍線部ウ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(四)「近代の学校教師は、子どもを杜会人に育てあげる能力をほとんど失ったにもかかわらず、いや失ったがゆえに、子どもへの理解を無限に強いられる」(傍線部エ)とあるが、教師が「子どもへの理解を無限に強いられる」とはどういうことか、わかりやすく説明せよ。


【解答例】
(一)近代以前の大人と子どもの関係は、同じ仕事の先輩と後輩の関係であったため、子どもの心には尊敬の気持ちが自然と生まれたから。

(二)中世では、学校も見習いの場であり、生徒は教師の仕事を見て手伝いながら覚えたため、教育方法が発達することもなかったということ。

(三)生徒の大部分が教師後継者ではなくなった近代の学校では、子どもが教師を先輩として尊敬することはできなくなったということ。

(四)教師と生徒の関係が見習いから教育へと変わった現在、教師の側が子どもを理解することを永遠に強制されるようになったということ。


【解き方】
(一)傍線部(ア)「それが大人の権威を支える現実的根拠であった」とあることの理由を問うているが、傍線部冒頭の「それ」は、前文の内容を指している。しかも、それが「根拠であった」といっているのだから、その内容を自分の言葉にすればいい。

(二)傍線部(イ)「中世の教師は、逆説的にきこえるかもしれないが、教える主体ではなかった」という一文は、「その意味で言うと」という語句で始まる文であることを見ても分かるように、「これは逆にいうと」で始まる段落のまとめの部分の一文である。「これは逆にいうと」という語句と「逆説的にきこえるかもしれないが」という語句が見事に対応している。では、段落冒頭の「これを逆にいうと」とある「これ」が何を指しているかというと、前段落の内容である。つまり、近代以前は、学校も教育の場というよりも仕事見習いの場だったのである。次の段落が「後継者見習いが十分に機能しているところでは、教える技術は発達しにくい」という一文で始まることでも、傍線部のある段落の内容が、中世の学校が教育の場というよりも見習いの場だったという内容であったと分かる。

(三)傍線部(ウ)は「教師と生徒の関係のこの難しさ」とあるのだから、文中の指示語「これ」が指しているものが何であるかを特定すればいい。それは、全段落の最後の一文である「子どもが教師的人間像を受けいれることは、生徒の大部分が教師後継者ではなくなった近代の大衆学校では、ごく限られた範囲でしか通用しない」である。しかも、この文は逆説「しかし」で始まる文であり、筆者の主張が述べられていることは明らかだ。評論文は〈常識を疑う〉がテーマであるから、常識的見解や異なる意見を述べたあとに、必ず逆接の接続詞をもってきて、自分の意見を記す。この場合もそうだ。ラニョーやアランのような「教師冥利」につきるような例外を述べた後で、「しかし」ときて、自分の意見を展開させている。

(四)「見習いの機能が生きていた時代には、大人は、たとえ子どもを理解しないままでも、後継者を養成することができた」とあり、つづけて「それとは対照的に」ときて傍線部(エ)があるのだから、傍線部(エ)の内容が「子どもを理解」しなければならないことだと分かる。しかも、子どもを理解することが教師に「強いられる」ということを強調しておくといい。筆者は、この状況を正常な状態とはけっして思っていないことが分かるからだ。子どもを一方的に支配しようとすることが正しいとは言えないように、教師に対して一方的に子どもへの理解を強いることも正しいとは言えない。

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
(4)についてですが、「対照的」とは、『同職→理解不要』と『異職→理解必要』というとらえ方で大丈夫ですか?
また、最終段落は、教育の諸技術(=誘惑術)を発達させた理由に関わるものなので、その技術を磨くために理解が強いられる、と考えたのですが、合っていますか?

解答例(2)の「教育法」が法律のことだと思われてしまう危険性がある気がします・・・
イチロー
2011/08/15 21:57
(四)についてあなたの解答を見ないとなんともいえませんが、「後継者見習い」とは「対照的に」ということですので、あなたの「異職」というのは突飛な言葉だと思います。新しい言葉は作らない方がいいでしょう。

また「誘惑術まがいの教育の技術」と理解は微妙に異なります。「教育の諸技術」は学生を「誘惑」するもの、つまり興味を持たせる技術であり、「理解」は教師にとって学生は自分とは異質な者(他者)であること自覚を求めるということです。そのような意味で前段落までの内容を受けていると思います。

(二)の解答例の「教育法」については本文中に「教授法」とあり、採点官が法律と間違うと考えるのは心配しすぎだと思います。でも、心配なら「教育方法」と直しておきましょう。

ところで、よく質問されていますが、それなら正式に添削指導を申し込まれたらどうですか?その方が心置きなく質問できますよ。 
佐々木哲
2011/08/16 01:06
度々質問に答えてくださり、ありがとうございます。
納得できる解答例探しをすると、このサイトの解答が一番だという結論になります。本当に感謝しています。

添削指導はどのような内容なのでしょうか?
イチロー
2011/08/16 20:46
私の解答例を評価していただきうれしく思います。熱心な東大受験生は一箇所の模範解答では満足できずに、ネットサーフィンをすることが多いですね。自然と受け入れられる模範解答がもっともいいと思います。分かりにくいものは、作成者本人が分かっていない場合が多いです。翻訳と同じです。

添削指導は、まずは受講生が東大の過去入試問題の解答を作成して、メールで送信してもらい、それを私が添削して返信するというものです。それに、納得いくまで質問できるオプションを付けることもできます。この場合、添削内容だけではなく、課題文の内容についての質疑応答も含んでいますので、聴くだけでの予備校の授業よりも内容は濃いです。メールを通して議論するのと同じです。実質、対面での個人指導と同じぐらい濃い内容とお考えください。

もし興味があれば、メールでお知らせください。料金などは、そのときに御相談にのります。

佐々木哲
2011/08/17 10:54

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