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zoom RSS 1998年東大前期・世界史第1問「南北アメリカ・歴史の分岐点」

<<   作成日時 : 2006/08/31 01:00   >>

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アメリカ合衆国とラテンアメリカ諸国は、ともにヨーロッパ諸国の植民地として出発した。しかし、独立後は、イギリスの産業革命などの影響の下で対照的な道を歩むことになった。たとえば、アメリカ合衆国の場合には、急速な工業化を実現していったのに対して、ラテンアメリカ諸国の場合には、長く原材料の輸出国の地位にとどまってきた。そしてラテンアメリカ諸国は、政治的にも経済的にもアメリカ合衆国の強い影響下におかれることになったが、その特徴は、現在のラテンアメリカ諸国のあり方にも大きな影響を及ぼしている。
 そこで、一八世紀から一九世紀末までのアメリカ合衆国とラテンアメリカ諸国の歴史について、その対照的な性格に留意しつつ、ヨーロッパ諸国との関係や、合衆国とラテンアメリカ諸国との相互関係のあり方の変化を中心に、下に示した語句を一度は用いて、解答欄(イ)に一五行以内で記せ。なお、使用した語句に必ず下線を付せ。

プランテーション、 パン=アメリカ会議、 南北戦争、 ウィーン体制、 
自由貿易主義、 モンロー宣言、 クリオーリョ、 米英戦争

【解き方】
アメリカ合衆国とラテン=アメリカ諸国はともにヨーロッパ諸国の植民地として出発しながら、独立後には異なる道を歩み、しかもラテン=アメリカ諸国はアメリカ合衆国の強い影響下にあった。このような両者の関係を論述する問題だ。あたえられているキーワードは、「プランテーション」「パン=アメリカ会議」「南北戦争」「ウィーン体制」「自由貿易主義」「モンロー宣言」「クリオーリョ」「米英戦争」だ。
 歴史を記述するのだから、時代順にキーワードを並べ替えしてみよう。それだけでも下書きができる。並べ替えると、「プランテーション」「米英戦争」「クリオーリョ」「ウィーン体制」「モンロー主義」「自由貿易主義」「南北戦争」「パン=アメリカ主義」となる。
 あとは、キーワードごとに関係事項を加えながら記述していこう。
 まず「プランテーション」だ。
 プランテーションは輸出用の商品作物を生産する大農場経営で、植民地でひろくおこなわれていた。一六世紀末には、カリブ海諸島でサトウキビ栽培が始められ、北米でも、黒人奴隷制による綿花プランテーションが発達して、イギリスエ業の原料供給地となった。ここで忘れてはならないことは、いまでもアメリカは農業国ということだ。
 つぎに「米英戦争」だ。これでアメリカの工業化を説明する。
 ヨーロッパ大陸でナポレオン戦争が繰り広げられていた一八一二〜一四年、アメリカはイギリスと米英戦争を繰り広げた。ナポレオンが発令した大陸封鎖令(ベルリン勅令)に対抗して、イギリスも海上封鎖をおこって米仏間の通商を妨害したことから戦争が勃発した。この米英戦争のさなかイギリスの工業商品の流入が途絶えたために、アメリカは自国で生産した綿花を利用して綿織物工業を発達させ、経済的にもイギリスから独立できたのだ。さらにアメリカは産業革命に成功して、一八八〇年代には工業生産でイギリスを抜いた。
 つぎに、「クリオーリョ」だ。これでラテン=アメリカ諸国の独立を記述する。
 ラテン=アメリカにおける植民地生まれの白人のことを〈クリオーリョ〉という。かれらの多くは地主階級であり、本国から派遣された官僚と対立し、フランス革命・ナポレオン戦争で本国が混乱していることに乗じて独立運動をおこした。一八〇四年黒人初の共和国としてハイチが独立すると、シモン=ボリバルは大コロンビア(コロンビアとベネズエラ)・ボリビアの独立を指導し、サン=マルティンもアルゼンチン・チリ・ペルーの独立を指導して、ラテン=アメリカ諸国は独立に成功した。
 つぎに「ウィーン体制」「モンロー宣言」だ。これで、ラテン=アメリカ諸国の独立に対するヨーロッパ本国とアメリカの対応を記述する。
 フランス革命以前の体制の復活をめざすウィーン体制で、オーストリア外相メッテルニヒはラテン=アメリカ諸国の独立に干渉しようとしたが、一八二三年アメリカ大統領モンローが相互不干渉を唱えたモンロー宣言を発表し、またラテン=アメリカを自国製品の市場にしようと考えていたイギリス外相カニングも独立を支援した。しかしクリオーリョによる大土地所有が温存され、自由貿易主義のもとコーヒー・砂糖などのプランテーションが発達した。
つぎに「南北戦争」と「自由貿易主義」だ。ここで、アメリカ南北戦争を正しく理解しているかどうかがわかる。
 アメリカの北部と南部では経済的構造が異なることから、政策をめぐり対立が激化した。南部地域では、黒人奴隷を労働力とするタバコ・米・藍・綿花などを生産するプランテーションが普及していた。とくにイギリス産業革命以後は、原材料である綿花の需要が高まり、イギリスとの関係を深めていた。このように南部は安価な綿花の供給地であり、自由貿易が有利であった。それに対して北部は、一八四〇年代から産業革命がすすみ工業化が本格化していたことから、先進国イギリスの工業製品に関税をかけて、自国製品を保護する必要がった。このように北部は、南部を自国製品の市場として確保する必要があったため、保護貿易を主張した。一八六〇年の大統領選挙で、黒人奴隷反対派の共和党のリンカーンが当選した。南部はこれを認めず、一八六一年にはリッチモンドを首都とするアメリカ連合国を結成して、連邦から離脱した。南部側がサムター要塞を攻撃したことで南北戦争が始まり、北部が奴隷解放宣言を発表して国際世論の支持を獲得し、西部農民の自立を支援するホームステッド法を出して西部の支持も獲得して優勢を維持し、一八六五年に南軍が降伏して終結した。これで、アメリカの工業は大きく発達し、一八八〇年代にはイギリスを抜いて工業生産が世界一位になった。
最後に「パン=アメリカ会議」だ。
 一八八九年に第一回パン=アメリカ会議がワシントンで開かれ、一八九八年アメリカは米西戦争に勝利すると帝国主義に転じ、パン=アメリカ会議もアメリカの中南米外交を推進する場になった。一九四八年にパン=アメリカ会議で成立したボゴタ憲章で米州機構に改編された。
 あとは、これを制限字数内におさめればいい。

【解答例】
北米でも中南米でも、プランテーション経営が発達し、米独立革命後も米経済は英経済に従属していた。しかしヨーロッパ大陸でナポレオン戦争が繰り広げられると、米国は米英戦争を繰り広げ、英製品の流入が途絶えたことで自国工業を発達させ、経済的にも英国から独立できた。中南米諸国も、クリオーリョ出身のシモン=ボリバルやサン=マルティンの指導で独立を果たした。仏革命以前の復活をめざすウィーン体制下で、中南米諸国の独立に干渉する動きもあったが、米国はモンロー宣言で相互不干渉を宣言し、市場拡大を目指す英国も独立を支援した。ところが米国では、北部と南部がそれぞれ保護貿易主義と自由貿易主義を主張して南北戦争が始まった。北部が奴隷解放宣言で国際世論の支持を得、西部農民の自立を支援するホームステッド法で西部の支持を得て勝利した。これで米工業は発展し、一八八〇年代には英国を抜いて工業生産が世界一位になった。これで南北間格差が決した。以後、米国はパン=アメリカ会議を通して中南米諸国を指導した。

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