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zoom RSS 2003年東大前期・日本史第3問「江戸幕府の歴史認識と華夷変態」

<<   作成日時 : 2006/06/22 02:14   >>

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次の文章を読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。
 一七世紀後半になると、歴史書の編纂がさかんになった。幕府に仕えた儒学者の林羅山・林鵞峰父子は、神代から一七世紀初めまでの編年史である『本朝通鑑』を完成させ、水戸藩では徳川光圀の命により『大日本史』の編纂がはじまった。また、儒学者の山鹿素行は、戦国時代から徳川家康までの武家の歴史を記述した『武家事紀』を著した。
 山鹿素行はその一方、一六六九年の序文がある『中朝事実』を書き、国と国の優劣を比較して、それまで日本は異民族に征服されその支配をうけることがなかったことや、王朝の交替がなかったことなどを根拠に、日本こそが「中華」であると主張した。
設問
A 一七世紀後半になると、なぜ歴史書の編纂がさかんになったのだろうか。当時の幕藩体制の動向に関連させて、三行以内で述べなさい。
B 下線部のような主張がうまれてくる背景は何か。幕府が作り上げた対外関係の動向を中心に、この時期の東アジア情勢にもふれながら、三行以内で述べなさい。

【解き方】
「日本こそ中華である」――この主張はとんでもない主張に思える。しかし当時の国際情勢をみると、この主張にも一理ある。問題を解きながら、自分の常識が壊れていく。この面白さに気づくと、東大入試の問題を解くことが、苦にならないどころか、楽しみにさえなる。
 もうひとつ、江戸幕府の歴史編纂事業というと、すぐに勝利者史観と決め付けてしまうだろう。しかし、これもそう単純ではない。林羅山・林鵞峰父子も、徳川光圀も、山鹿素行も実証歴史学に徹していたからだ。実証歴史学であるのに、結果として勝利者史観になった。そこには、きちんとした理由があった。
 歴史を書くということは、実は現在のルーツにふさわしい過去を歴史のなかに再発見するということだ。ここで挙げられている歴史書の編纂事業もそうだ。幕府に仕えた儒学者の林羅山・鵞峰父子は、神代から一七世紀初めまでの編年史である『本朝通鑑』を完成させた。また御三家のひとつ水戸藩では徳川光圀の命により『大日本史』の編纂がはじまった。
 これら林羅山・鵞峰父子や徳川光圀の歴史編纂事業は、実証的であろうと努力した。水戸藩の『大日本史』も全国から資料を集め実証的に研究されているが、それでもやはりひとつの歴史観から出発している。それが〈易姓革命〉という思想だ。人の上に立つ者は徳をもって統治しなければならない。もし統治者が人心を失えば、人心を得た者が新たな統治者となる。そのため、家光後の文治政治の時代には、官僚である武士には〈徳治〉がもとめられた。また私利私欲に縛られず公共性を重視することがもとめられた。それが〈大義名分〉だ。しかし易姓革命という視点で歴史を見ると、必ず前政権は悪政だったから倒れたと記述することになる。記述者本人が気づかないまま勝利者史観になってしまうのだ。実際に『大日本史』は実証的であるが、勤王思想と大義名分論で貫かれている。
 理解するということは自分に引き寄せるということだ。わたしたちが客観的だと思っているものは、実は見方を共有している人々が、同じものを同じように見ているということだ。同じグループに属していれば、やはり同じ枠組みで歴史を捉えることになる。
 それに対して、山鹿素行は幕府側の人物ではない。もともと林家で学んでいたが、朱子学に疑問を持ち、儒学の聖祖孔子の教えに戻ることを宣言した。そのため赤穂に配流になった人物だ。そのかれも武士の立場から見た歴史書『武家事紀』で武家政治の由来をまとめ、徳治の大切さを唱えている。
 さらに山鹿素行は赤穂配流中に『中朝事実』を書き、国と国の優劣を比較して、それまで日本は異民族に征服されたことがなかったことや、王朝の交替がなかったことなどを根拠に、日本こそが「中華」であると主張した。実は中国では、一六四四年に明朝から清朝に交替していた。しかも漢民族から女真族(満州民族)という異民族への王朝交替であったことから、林父子はこの王朝交替を「華夷変異」と呼んだ。異民族の支配を受けたことがないことから日本こそ中華だと主張することは、とんでもないことのように思えるが、かれの歴史観の中ではむしろ合理的だった。
 しかし、それにしても幕府が自らを正当付けるために主唱していた勤王思想が、幕末に討幕派に大義名分を与えたことは歴史の皮肉といえよう。京都守護職をつとめた会津藩が悔しい思いをしたのも、この一点だ。なぜ自分たちが朝敵とされたのか理解できないままに敗北していったのである。

【解答例】
A 徳川幕府は朱子学の易姓革命にもとづき自らの正統性を実証的に明らかにするため歴史編纂事業に着手したが、一方で山鹿素行は武士に大義名分や徳治の大切さを自覚させるため叙述した。
B 実力で国内統一した徳川将軍は「国王」とは名乗らず、中国の華夷秩序から距離をおいた。さらに明から清への王朝交替があったことで、異民族支配がなかった日本こそ中華という意識が生まれた。

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
水戸藩は江戸幕府の権威付けのために歴史編纂をしたというわけですか。
吉田松陰は水戸学の勉強をしています。水戸学が倒幕理論として使われたというのは、歴史の皮肉ではないかと考えています。
藍愛和
2006/06/23 10:42
江戸幕府は、天皇から委任を受けて統治したという形をとりましたから、もちろん勤王思想を持ち続けます。尾張も水戸も会津も勤王です。

江戸幕府というと朝廷統制という常識をもちやすいのですが、それは徳川氏と摂関家の合意で象徴天皇制を確立したということであり、統制というとはいえないように思われます。

岩倉具視も最初は公武合体派だったように、朝廷も基本的には幕府との協調路線をあゆんでいたのであす。

このように幕府が勤王だったからこそ、開国後に孝明天皇に攘夷をもとめられて幕府は対応に窮するのです。錦の御旗を立てられて慶喜が臆病風に吹かれてしまうのも、勤王思想のためです。

勤王である幕府が、勤王を掲げた薩長に敗れるのは本当に歴史の皮肉です。
佐々木哲
2006/06/23 12:32
御教示有難う御座います。

勤王である江戸幕府の末期には、「壁は落ち、軒は崩るるこの有様。これが一天万乗の大君のまします皇居とな。」と高山彦九郎の歌に歌われたような惨状が見られました。(これは非幕府系勤皇派のデマでしょうか。歌の文句はうろ覚えです。すみません。)

勤王である非幕府系政府は1945(S20)年8月15日、政府自らが植民地主義的侵略国家であると臣民に宣伝していた連合国に降伏するという屈辱を、昭和天皇に与えました。(これは反非幕府系勤王派のデマでしょうか。)

天皇制は日本国の根幹であるにも係わらず、余り深く議論されていません。
日本国が天皇制を維持するのなら、天照大神以来天皇陛下と国民との関係はどうであったのかという歴史を、全ての資料を網羅しながら最大限度明確にすべきではないでしょうか。
藍愛和
2006/06/24 11:40
左幕派も討幕派も自分たちを正当化するために天皇を使用しただけです。日本では、天命思想の代わりに、天孫と伝えられる生きた天皇を使用したのです。天皇を頂くということが、天命(正義)が自分の側にあるということを意味したのです。それだけです。

ところで最近の天皇制をめぐる議論は、女系天皇の可能性をめぐる議論だけで、天皇制について深く議論していませんね。ほんとうは天皇制の存続をめぐる、根本的な議論が必要だと思います。
佐々木哲
2006/06/24 13:02

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