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zoom RSS 2002年東大前期・日本史第二問「武士と農民は同一階層」

<<   作成日時 : 2006/06/06 12:05   >>

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次のア〜エの文章を読んで、下記のA〜Dに答えなさい。
ア 室町時代、国人たちは在地に居館を設け、地侍たちと主従関係を結んでいた。従者となった地侍たちは惣村の指導者層でもあったが、平時から武装しており、主君である国人が戦争に参加するときには、これに従って出陣した。
イ 戦国大名は、自分に従う国人たちの所領の検地を行い、そこに住む人々を、年貢を負担する者と、軍役を負担する者とに区別していった。そして国人や軍役を負担する人々を城下町に集住させようとした。
ウ 近世大名は、家臣たちを城下町に強制的に集住させ、領国内外から商人・手工業者を呼び集めたので、城下町は、領国の政治・経済の中心地として発展していった。
エ 近世の村は、農民の生産と生活のための共同体であると同時に、支配の末端組織としての性格も与えられた。

設問
A 室町時代の地侍たちは、幕府・大名・荘園領主たちと対立することもあった。具体的にどのような行動であったか。三行以内で述べなさい。
B 戦国大名は、何を目的として城下町に家臣たちを集住させようとしたのか、四行以内で述べなさい。
C 近世大名は、城下町に呼び集めた商人・手工業者をどのように扱ったか。居住のしかたと与えた特権について、三行以内で述べなさい。
D 近世の村がもつ二つの側面とその相互の関係について、四行以内で説明しなさい。

【解き方】
歴史講演会で話をしていると、出席者から「わたしの家はただの農民です」という言葉をよく聞く。武士と農民は別の階層という常識を持ってしまっている。しかし武士も農民ももともとは同一階層だった。この問題は、そんな常識を破ってくれる。資料アでも、地侍たちが惣村の指導者層でもあったことが述べられている。かれらは平時から武装しており、主君が戦争に参加するときには従軍した。平時には年貢を納め、戦時には従軍するというように、地侍は在地領主と御恩と奉公の関係にあった。しかし地侍は自分たちの利益を守るために、荘園領主と争うときには地頭と組み、地頭と争うときには荘園領主と組み、あるいは幕府に対して徳政をもとめて土一揆を主導した。
戦国大名は、年貢の確保と常備軍の設置が急務だった。そこで自分に従う在地領主たちの所領の検地を行い、年貢を負担する者と軍役を負担する者とに区別した。こうして武士を農業経営から解放して常備軍を編成するとともに、俸給制の官僚にすることで武士と土地を切り離して、領国の一円支配をすすめた。
 さらに常備軍の生活を維持させるために、楽市を実施して国内外から商人・手工業者を城下町に呼び集めた。近世大名は領国経済の一元化を目指して楽市を実施して商工業者を城下町に集住させ、さらに生活物資と軍事物資の安定供給を確保するために職種ごとに居住させて保護した。こうして城下町は、領国の政治・経済の中心地として発展した。
 近世初頭の名主は兵農分離で旧領に残った地侍たちであり、新田開発を指導するなど共同体の形成に尽力した。幕府も村の自治を保障し、年貢の村請制を採用して支配の末端組織として位置づけた。近世の村は、農民の生産と生活のための共同体であると同時に、支配の末端組織としての性格も与えられた。農業生産物の確保と治安維持を農村に期待したのである。
 兵農分離は地侍をムラから切り離して城下町に集住させて純然たる消費生活者するとともに、ムラに残ったものが近世農民になった。このように没落した名家の扶持を離れて帰農・帰商したものがあった反面、新興大名との縁故で新たに武士になったものも多く出現した。幕藩体制の確立にともなう社会的な変動は大きかったが、それは農民階層を基盤にする新しい身分の分立といえる。したがって江戸時代は後期のみならず、前期においても身分間での移動・通婚がかなり容易に行われた。

【解答例】
A 地侍は兵農分離以前の惣村の指導者で、自らの利益を守るため、荘園領主と争うときには地頭と組み、地頭と争うときには荘園領主と組み、あるいは幕府に対して徳政をもとめて土一揆を主導した。
B 戦国大名が家臣の城下町への集住をもとめた理由は、武士を農業経営から解放して、俸給制の官僚や常備軍にすることで権力機構を強化すると同時に、武士と土地を切り離することで大名による領国の一円支配をすすめるためである。
C 近世大名は領国経済の一元化を目指して楽市を実施して商工業者を城下町に集住させ、さらに生活物資と軍事物資の安定供給を確保するために職種ごとに居住させて保護した。
D 近世初頭の名主は兵農分離で旧領に残った地侍たちであり、新田開発を指導するなど共同体の形成に尽力した。幕府や藩はかれらの耕作権と自治権を認めたが、年貢を村請制にすることで村を支配の末端組織として位置づけた。

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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
先生の講義でもご教授を受けた内容です。これは私たちの概念をくつがえしてくれます。農民層の実態というものを見直す必要があると私も強く感じる次第です。
佐々木寿
2006/06/08 00:19
コメントありがとうございます。

江戸時代に士農工商という実態があったかどうかも疑問です。明治政府が平等を強調するために、江戸時代が差別社会だと強調したのだと思います。壬申戸籍の「士農工商」も実態を示していたのか疑問です。

本家が村に残り、次男・三男が武士になった家は多いですよ。
佐々木哲
2006/06/08 22:39
宮川家から近藤家養子になった、勇は、長男ではなく、どうでもいい、末っ子。
近藤理心流に学んで、近藤家の家主となり新撰組として最後死ぬ。
近藤ゆうごろうさんの娘、こんさんが峰岸家の本家にきて、
わたしのひい婆ちゃんは峰岸家の三女なんで。。。。
近藤勇の遠い親戚
2007/07/19 07:09
士農工商は身分制度というよりも職業の発達の専門分化という感じがする。経済発展に貢献したんだ。職業を限定することによって、その職業の永続性ができあがる。米や鰹節が商品取引の商品として仲買が取り扱っていた。いまでいうと、コーヒー豆や大豆の商品取引いまの現代の経済の基礎みたいなのが近世にあったとおもう。商品取引を行うことによって、貨幣経済システムもなければならないし、大判小判以外に、銭という貨幣が商品取引に活用されていたことは言うまでもない。小銭に両替する両替商がいたこともそのひとつであり、この株価操作みたいなこと行うものは、商品の値打ちがあがることを喜んでいただろうし超インフレ状態だった気がしてならないのだが、先日の深川の歴史を清澄庭園にて聞いて深川住民の、豊かな生活に、狂乱物価とか?インフレはどこにいったんだろう・・・・・・・???けっして、生活を苦しいと思わず、生活を楽しみ、自然環境に眼を向けていた江戸住民は博識でチエがあって、物質社会の現代人よりも、豊かな心をもっていた。狂乱物価とかインフレなんてどこの話しか?という深川の庶民のくらしがある。
近藤勇の遠い親戚
2007/07/19 20:27
江戸時代の庶民の生活に興味を持っていただきありがとうございます。社会経済史の研究が進んだことで、江戸時代の庶民生活のイメージが一変しました。

これからも興味を持っていただけると、うれしく存じます。
佐々木哲
2007/07/19 20:55

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