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次の(1)〜(4)の文章を読んで、下記の設問に答えなさい。 (1) 律令制では、官人は能力に応じて位階が進む仕組みだったが、五位以上は貴族とされて、様々な特権をもち、地方の豪族が五位に昇って中央で活躍することは多くはなかった。 (2) 藤原不比等の長男武智麻呂は、七〇一年に初めての任官で内舎人(天皇に仕える官僚の見習い)となったが、周囲には良家の嫡男として地位が低すぎるという声もあった。彼は学問にも力を注ぎ、右大臣にまで昇った。 (3) 太政官で政治を議する公卿には、同一氏族から一人が出ることが一般的だった。それに対して藤原氏は、武智麻呂・房前など兄弟四人が同時に公卿の地位に昇り、それまでの慣例を破った。 (4) 大伴家持は、七四九年、大伴氏などの天皇への奉仕をたたえた聖武天皇の詔書に感激して長歌を詠み、大伴氏の氏人に、先祖以来の軍事氏族としての伝統を受け継いで、結束して天皇の護衛に励もうと呼びかけた。 設問 奈良時代は、古くからの豪族を代表する「大伴的」なものと新しい「藤原的」なものが対立していたとする見方がある。律令制にはそれ以前の氏族制を継承する面と新しい面があることに注目して、奈良時代の政治と貴族のありかたについて、六行以内で説明しなさい。 【解法】 わたしたちは、藤原氏のことを誤解していたようだ。藤原氏は長屋王・橘諸兄・道鏡との権力闘争で政権を奪取したと習ってきた。しかし資料(2)を読むと、そんな常識は吹っ飛んでしまう。右大臣藤原不比等の長男武智麻呂は、右大臣の息子でありながらきちんと官僚見習いから出発した。たたき上げの官僚だ。そして武智麻呂も父と同じように右大臣に至った。しかも古代の氏姓制度とは異なり律令制度では、優秀であればひとつの氏族から複数の官僚を出すことができた。そのため資料(3)にもあるように、武智麻呂の弟房前・宇合・麻呂もそれぞれ優秀な官僚として活躍し、みな執政官のひとつ参議にまで至った。参議はこのとき新設された令外官で、若手や学者が朝政に参加できるようにしたものだ。藤原氏を見る目が変わる。 まず藤原氏の祖中臣鎌足は、留学生南淵請安に学んだ中国の律令制度を理想に掲げ、中大兄王とともに大化の改新をおこなった。鎌足の子不比等は大宝律令の実質的な責任者となり律令制度を確立し、その後も補足修正しつづけて養老律令をつくった。藤原氏は律令制度の確立のためには不可欠な存在だった。 藤原氏には鎌足以前の中臣氏の職掌神祇官に任命された者はいない。氏姓制度にとらわれず、優秀な官僚・学者になっていたのである。そして藤原四兄弟みなが公卿(上流貴族)に列して南家・北家・式家・京家を立てることができ、それぞれの家から貴族が再生産された。多くの特権をもつ貴族をこのように再生産できた藤原氏が、こののち大きく発展したのは当然だ。 氏姓制度では、資料(4)で大伴家持が主張しているように、それぞれの氏族が氏上(氏長者)のもとに一致団結して先祖以来の職掌で朝廷に奉仕した。しかし律令制度では、出身氏族にかかわりなく適材適所に配置する官位制度を確立された。ひとりひとりが優秀であれば出世できる官僚機構の中で、先祖以来の職掌を守り専門集団にとどまれば、多くの議政官を出すことはできない。ここに藤原氏と大伴氏の差があった。貴族の最低ラインである五位を極位とする地方豪族との差は、さらに広がった 【解答例】 中央集権的な中国の律令制度を移植したことで、中央豪族は官僚と なったが、地方豪族は官位制度から排除され、中央の有力豪族によ って貴族層が形成された。しかし氏姓制度的な性格を残した大伴氏 をはじめとする旧豪族は、人材登用を目指した官位制度が機能し始 めると適応できず、律令制度を理解して優秀な官僚を多く輩出し続 けた藤原氏が、貴族の地位を独占することになった。 |
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| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|---|
初めまして。 |
藍愛和 2006/05/21 21:45 |
はじめまして。 |
佐々木哲 2006/05/21 22:09 |
御教示有難うございます。 |
藍愛和 2006/05/22 15:21 |
新しいものを築き上げるのですから、難しいのは当然です。築き上げた後も、初めての連続ですから。 |
佐々木哲 2006/05/22 16:21 |
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