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zoom RSS 斎藤道三の国盗りは父子2代(六角承禎書状)

<<   作成日時 : 2006/05/17 02:38   >>

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天文・弘治年間足利義晴・義輝父子を保護しているあいだ、斎藤道三に追われた旧美濃守護土岐頼芸を近江に保護。北伊勢で北畠氏と抗争。弘治三年(一五五七)六角氏養女が本願寺に嫁ぎ(『厳助往年記』)、本願寺との連携を強化した。
 永禄三年(一五六〇)浅井長政の自立阻止のため、承禎は北近江に侵攻。しかし野良田合戦では敗北。そこで宿老衆は、承禎の長男義治(当時は四郎義弼)と斎藤義龍の娘との縁談をすすめて同盟。承禎はこの縁談に反対した(神奈川県春日倬一郎氏所蔵文書:七月二十一日付宿老宛六角承禎書状)。
 この書状で六角・土岐・朝倉大名一揆の様子がわかるとともに、斎藤道三の国盗りが父長井新左衛門尉から始まる父子2代によるものだったこともわかる。

一、山上へ義弼取退候子細、何事候哉、各被越候て、被相尋候節、
  以条数四郎存分共申、第一番仁京都之儀、其次濃州、長々
  当国拘置、入国不馳走事、不可然之由、今度之働以外相違事、
一、土岐殿、当家縁篇之儀、慈光院始而、代々重縁儀、京・ゐ中
  無其隠ニ、諸事不遁間事、
一、彼斎治身上之儀、祖父新左衛門尉者、京都妙覚寺法花坊主落
  にて、西村与申、濃州錯乱之砌、心はしをも仕候て、長井同名ニ
  なり、又父左近太夫代々成惣領を討殺、諸職を奪取、彼者斎藤
  同名ニ成あかり、剰次郎殿を聟仁取、彼早世候而後、舎弟八郎
  へ申合、井口へ引寄、事ニ左右をよせ、生害させ申、其外兄弟
  衆、或ハ毒害、或ハ隠害にて、悉相果候、其因果歴然之事、
一、斎治父子及義絶、弟共生害させ、父与及鉾楯、親之頸取候、
  如此代々悪逆之体、恣ニ身上成あかり、可有長久候哉、美濃守
  殿、当国ニ拘置なから、大名なとに昇進候事、当家失面目義、
  不可過之候、日月地ニ不落ハ、天道其罪不可遁之処、縁篇之
  儀、可申合儀者、名利ニなから可相果候、江雲寺殿天下無其隠
  孫にて、右覚語対先祖不忠と云、佐々木家之末代かきん、可有
  分別候、公私共辱同前事、
一、義弼帰城之時、諸事承禎御意次第由、起請文在之事、
一、於佐和山井口与縁篇、可申合誓紙遣之由、申候歟、既対父
  承禎引弓放矢時者、□いか様之儀も可申合候、定而人々跡職
  なとも配当可仕候へ共、令和談、以起請文相果、帰城之上者、
  佐和山間之儀者、一切ニ不可入候、其時々起請文そたつへき
  か、承禎ニ誓紙正ニ可成候歟、各可有分別事、
一、歳寄衆起請文相違之儀在之者、達而可申之、又義弼不可然儀
  者、達而異見可申旨申定、今度対父子是非之異見、不被申届
  儀者、併天罰・神罰をハ被存候哉事、
一、無縁之人、立入頼儀さへ拘置者、諸侍義理、田夫野人迄も、
  其覚語有物にて候、美濃守殿、重縁と云、数年拘置、此時つき
  はなし、彼敵と縁篇可申合儀、天下之嘲、前代未聞口惜無念
  之事、
一、斎治言上儀、不可被成御許容旨、公方様に再三申上、又
  伊勢守与斎治所縁之時、京都に荷物以下当国とらせ、対勢州
  数年不返候、并近衛殿に彼娘可被召置由、内々此方に御届
  之時、以外御比興、沙汰之限候由、申入□□被打置儀候、
  然処ニ、今度此縁之風聞ニ付而、政所殿より以興禅寺、被仰越
  儀、失面目次第共、京都之嘲、無申事儀共候、さてゝゝ右之
  御届者、承禎不存旨可申哉、四郎悪名末代不覚候、義弼は
  若年候之間、宿老衆覚語と申候へハ、自然礼物ニふけり候て、
  仕合もとならてハ、世上ニ不可申候、誠当家は宇治川已来、
  及代々名字之名誉共、于今相残候処ニ、此代ニ至而比興之
  題目、物語・草子なとにも可書留儀、主従共恥ニあらす哉、
  無念至極之事、
一、越前と縁篇申合儀、去年宿老衆長光寺参会之時、
  以興禅寺相尋候処ニ、尤可然旨、一同ニ返事被申間、
  堅申合候、此度違変儀、可申遣様体、如何可在之候哉、
  殊井口儀者、古敵と存候所へ、申合儀、定無念ニ可存候、
  又先年御料人儀、内々雖所望候、能州に義理違候間、
  難成由、再往相断、只今又此縁相違候者、旁以遺恨
  有へく候間、北辺深重入魂と覚に、其時各覚語いかゝ
  有へく候事、
一、内々聞及候斎治申合、北辺へ存分在之由候、井口より
  北之縁篇をハすて、当方へ令同心、可及義絶候哉、其ハ
  自滅候間、とても不可成候処ニ、義弼ニ縁之儀申合度まゝ、
  彼伸人共落着、国之破其身後代恥をもかへり不見儀、
  時刻到来事、
一、越前とハ不通ニなり、斎治申合対様成へからす、殊揖斐
  五郎拘置、入国内談之由候、尾州ニ急与可有馳走由、
  美濃守殿に申談由候、然者、彼両国より濃州へ出張之時、
  当方働可有如何候哉、美濃守殿すてゝさへ有へきニ、
  当国出勢何と被存候哉、越州・尾州其覚語手宛有へく候、
  其上此方働一切不可成事候、旁以天下之ほうへん此時候事、
一、先年北郡出陣の時、自濃州井口、斎山自身矢倉山迄相働候、
  一向手ニもたす、かけ散も、其後足軽一人不出候、義弼自然
  之時、為合力、従井口可有出勢と、各被存候哉、頸ニ綱を
  付而も不可出候、其故ハ越州を左右ニ置、遠山初而東美濃を
  跡ニ置、人数出儀不可成候、さ候へハ、此国用ニ何として
  可立候哉、当方辺依様体、志賀郡なとへ、京都雑説ありけニ
  候、左様之遠慮も有へき処、越前・北郡辺不通ニ成候者、
  弥不思議可出来候、其時各覚語専一候事、
一、慈寿院殿、承禎目前ニ置なから、四郎祝言可仕事、不孝之
  いたり、外聞実儀いかゝ被存候哉、此縁上下儀、次第ニ、
  美濃守殿数年拘置、手前おも指当、迷惑も無之、縁篇も
  更ニをそからさる所ニ、彼国取候被官人と縁篇申合、他国
  より入国させ申、越州・尾州当国へ遺恨必定候、然者、名利共
  相かけ候、此度承禎・義弼并年寄衆、悪名不可有其隠候、
  国之為、家之為、余口惜候間、如此候、江雲寺殿、都鄙之
  名誉共在之処、承禎無器用、依而此仕立成候、其子四郎
  若年無分別を、歳寄衆奉而、異見不仕候て、目くらへ候て、
  永代名をも、徳をも、家をもはなし候とて、下々之人口いかゝ
  被存候哉、一旦及折檻ニ候共、各可被申儀候、右、
  恐申誓紙之上者、相違にてハ不可然候、後悔さきに
  立へからす候、急度被申届、返事可被申事、以上
   永禄三年
    七月廿一日       承禎
         平井兵衛尉殿
         蒲生下野入道殿
         後藤但馬守殿
         布施淡路入道殿
         狛修理亮殿

 この同盟成立で、永禄四年(一五六〇)浅井長政の美濃侵攻の間隙を突いて佐和山城を攻略、浅井氏を屈服させることに成功。後顧の憂を断った六角氏は、河内畠山高政と三好包囲網を築き、京都奪還を目指した。

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