佐々木哲学校

アクセスカウンタ

zoom RSS 2006年東大前期・日本史第2問「海国日本と平氏」

<<   作成日時 : 2006/05/29 11:54   >>

ガッツ(がんばれ!) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

院政期における武士の進出について述べた次の(1)〜(5)の文章を読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。
(1)院政期には、荘園と公領が確定される動きが進み、大寺社は多くの荘園の所有を認められることになった。
(2)白河上皇は、「私の思い通りにならないものは、賀茂川の水と双六のさいころと比叡山の僧兵だけだ」と言ったと伝えられる。
(3)慈円は、『愚管抄』のなかで、「一一五六(保元元)年に鳥羽上皇が亡くなった後、日本国における乱逆ということがおこり、武者の世となった」と述べた。
(4)平氏は、安芸の厳島神社を信仰し、何度も参詣した。また、一門の繁栄を祈願して、『平家納経』と呼ばれる豪華な装飾経を奉納した。
(5)平清盛は、摂津の大輪田泊を修築し、外国船も入港できる港として整備した。

設問
A 中央政界で武士の力が必要とされた理由を、二行以内で述べなさい。
B 平氏が権力を掌握する過程と、その経済的基盤について、四行以内で述べなさい。

【解き方】
この問題を見ると、東大の問題は学者が作成しているとわかる。最近では清盛以前の平氏の研究がすすみ、平氏が再評価されているからだ。武士の歴史というと、東国武士と源氏の関係が注目され、戦国時代でも武田・上杉・後北条など東国の戦国大名が注目された。だから東国武士が武士の典型だという常識ができて、西国武士が正しく評価されなかった。だけど清盛以前の伊勢平氏が注目すると、東国武士とは異なる武士像が浮かび上がってくる。東国武士を基準に平氏を見るのではなく、西国武士の基準で平氏を見ると、明るく開けた海国日本が見えてくる。
 さらに清盛以前の伊勢平氏の歴史を見ると、院政期の政治史が単なる歴史用語の行列ではなく、生き生きとした歴史として復元できる。
 院政期には、(1)後三条天皇や白河天皇が比叡山延暦寺を天皇家の寺院として保護したため、大寺社は多くの荘園を所有した。そのため大寺院は大きな力をもち、天皇家・摂関家とならぶ権門のひとつになった。(2)多くの所領を持つようになった大寺院は武装化し、中央では強訴し、地方では地元の開発領主と争った。そこで開発領主は上皇に保護を求めて自分の所領を寄進して、上皇を背後に訴訟に勝ち、また北面の武士として天皇家の私的な軍事力にもなった。僧兵が強訴すると、かれら北面の武士が京都を守ったのである。この北面の武士の中から大きく飛躍したのが平氏だ。(3)保元の乱はまさに治天の君をめぐる天皇家の内紛だが、軍事力で一気に勝負が決まったことで、軍事力を有した者が政界を制するようになり、慈円が『愚管抄』で述べたように「武者の世」となった。これは武士の台頭の歴史であるとともに、平氏の歴史でもある。
 また平氏は海賊追討で西日本の武士の棟梁になったが、(4)安芸(現在の広島県)の厳島神社を信仰してなんども参拝したことは、平氏が瀬戸内海の制海権を握っていたことを示している。さらに(5)大輪田泊(現在の神戸港)を修築して、大型の外国船も入港できるようにしたことで、それまで博多中心であった日宋貿易を、京都にも近い福原(現在の神戸)でおこない、巨万の富を蓄積した。その象徴が(4)厳島神社に奉納された平氏納経だ。平氏の事業はまさに海国日本に相応しく、スケールの大きさを感じる。

【解答例】
A 院政期には寺社が天皇家・摂関家とならぶ権門となり、それぞれの権門が自らの権益を守るために軍事力を必要としたため。
B 伊勢平氏は自領を守るため、院に自領を寄進した。さらに院の軍事力として活躍し、院の近臣になり、西国の国司を歴任して富を蓄積する一方、北九州の天皇家領の管理を足がかりに日宋貿易を始め、大輪田泊を修築して福原を貿易の拠点とし、経済的基盤を固めた。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
ガッツ(がんばれ!)

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文

恋愛哲学

2006年東大前期・日本史第2問「海国日本と平氏」 佐々木哲学校/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる