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zoom RSS 大学受験と少子化−大学二極化の時代

<<   作成日時 : 2006/03/26 23:02   >>

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わたしが大学受験指導をしている地元立川の塾は、中学・高校受験が中心であるため、わたしが教えている現役専門大学受験は50名ほどだった。わたしはそのなかの国公立早慶上智文系クラス担当(10名程度)だが、今回の受験結果を延べ人数で表すと、一橋大1名、東京外語大2名、東京学芸大1名、早稲田大11名、慶應義塾大1名、上智3名、以下略という結果だった。河合塾の隣にあって少人数にならざるをえない塾では、毎年東大文系受験者がいるわけではない。それでもほとんどの受験生が第一志望に合格したので、これだけの結果が出た。
 このように毎年大学受験を指導していて思うのは、大学の二極分化だ。少子化でも受験倍率が高い大学と、少子化の影響を受けている大学の格差は年々広がっている。境界は「日東駒専」(日本大・東洋大・駒沢大・専修大)だ。少子化社会であっても人気大学の倍率が下がることはなく、あいかわらず激戦だ。ただし安泰なのは早慶上智であり、明治・立教などは横ばい。法政が新学部を次々と展開させたのは危機意識からだろう。実はこれら上位の大学でも、付属高校からの推薦枠を増やした大学がある。横ばいといっても実質的には易化といえるかもしれない。
 一方「日東駒専」未満の大学は、AO・自己推薦入試で簡単に入れる。なかには大学説明会に参加して、そのままAO入試を受験すれば合格できる大学まである。これらの大学は推薦枠を広げているため、それだけ一般入試の定員が少なくなり、2月入試を受験するよりも、定員の多いAO・自己推薦入試で受験するほうが簡単に合格できる。どこの大学でもいいのであれば、塾に通って2月試験を受ける必要はない。身近に提出書類を添削してくれる人がいれば、簡単に合格できる。実際に、わたしが教えている塾でも、一般入試では大学に入れないだろう受験生が、AO・自己推薦入試で容易に合格できた。大学生の学力低下が叫ばれているが、受験の現場から見れば、大学生の学力低下は大学側の自業自得に見える。
 危機意識を持っている大学がやることは、新学部の設置、カリキュラム変更による専門学校化、女子大の共学化だ。法政の場合は大学のイメージを好転させるのに一時的であれ成功したが、ほとんどの大学では新学部設置は失敗に終わり、既存の学部に比べれば合格しやすく、しかも既存の学部も含めて大学全体を易化させている。また短大から四年制になった女子大学、女子大学から共学になった大学も、ほとんどが失敗だ。女子大学が共学になっても、特色のない平凡な大学がひとつ増えるだけだからだ。かえって、女子大のままで人気が復活している大学もある。
 新学部設立で成功しているのは、医薬看護系学部・こども学部だ。しかし心理学科がそうであったように、大学が就職まできちんと面倒を見られるのか疑問だ。これらの学部の就職先は、東京では飽和状態だからだ。かといって学生は地方での就職を好まない。将来のことを考えず、安易に学生の集まる学部をつくろうとしているだけのように見えてしまう。
 カリキュラムを変更して、専門学校化する大学も多い。わたしが講師を勤めていた芝浦工業大学もそうだ。専門学校が大学を設立しているのと期を同じにして、大学が専門学校化している。大学が社会でも役立つ学問を目指すのはいいが、「いま」役立つ学問は「将来」使い物にならない。大学で「いま」役立つことしか学べなくなったら、時代の変化に対応できない卒業生を大量に社会に送り出すことになる。変化の激しい時代だからこそ基礎が必要だということが忘れ去られているようだ。実際に、基礎学問を重視する大学と、専門学校化を選択する大学で二極分化がおきている。
 大学を選ぶときには、まず自分が「日東駒専」以上の実力か未満の実力か見分けることだ。未満であれば、学校見学にはまめに行き、AO・自己推薦入試で受験することだ。「日東駒専」以上なら、伝統校を選ぶことだ。受験というシステムはもともと、生まれ育ちに関係なく学力だけで判断してくれる平等なシステムなのだから。

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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
 小生は現在某大学の聴講生ですが、事あるごとに教授から、佐々木先生と同じように今後の大学運営について危惧なさっておられることをもれ伺っております。
「変化の激しい時代だからこそ基礎が必要だということが忘れ去られているようだ。」のご意見に全く同感です。昨年リタイアメントしてからは、職業についてもまた大学についても客観視できる立場にあり、最近はつくづくその「拠り所」のない人達があまりにも多いことに気付かされています。「経営の合理化」という呪文を唱え、まさに目先のことだけに奔走している状況に憂慮しています。よく「基本に戻れ」と云われますが元もと「基礎」が無い人達はどこへ戻ればよいのでしょうか。まるで寄港地を持たない新鋭空母のようなものです。大学では人生の基礎を学ばせ、専門学校では金を得るための手段を学ばせるところですから、それを同居させるところに元もと無理があるのですよね。今こそ「学問」とは何かについてもっと真剣に考えてみるべきなのでしょうね。
∞ヘロン
2006/03/27 00:45
貴重なご意見ありがとうございます。現在の日本を見るに、「いま」役立つものは「いま」しか役立たないことが理解できていないようです。安定している社会であれば、「いま」役立つものが「将来」も役立つのですが、変化の激しい時代には「いま」役立たないものが「将来」役立ちます。大学のいいところは、そういう「いま」は役立たないものも勉強できるところだったはずです。
 日本では「わたしの哲学」という発言をよく耳にしますが、実際には哲学を大切にしていません。同じように「基本にもどれ」と言っても、その「基本」を大切にしていません。
 小手先の改革ではなく、根本的な基礎に立ち返った見直しが必要に思われます。
佐々木哲
2006/03/27 01:28

 昨年12月初め、「12月京都講演会」の記事中に、「 常識では考えられなかったものと出会ったときありえないと言って無視するのではなく、面白いと思って探求することが大切です。そのことで新しい事実が見えてきます。実はこれが発想の転換の方法であり、哲学の基本です」と記載され、またタイトルのブログ紹介にも「哲学の基本は『常識を疑え』」と、佐々木先生の思想信条が掲げられおり、小生はこのお言葉にひじょうに共感を覚え感動し貴ブログのファンとなりました。
「疑うこと」とは「本当はどうなのか、あれこれ思うこと」という意味がありますが、その「思う」の意味には「心で何らかの判断・推量をする」と『大辞林』に書かれています。つまり「疑う」には、それ相応の「判断できる能力」を持つことか不可欠だということのようです。来週は、各社に新入社員が入社しますが、「これは、こういう事なんだよ」といっても返ってくる答えの大半は「初めて聞きました」「教えて貰ってません」というのが今では定番となっています。「自分の頭で考えないのか?」と聞くと「……」なのです。 <つづく>
∞ヘロン
2006/03/28 16:03
要するに先ずは「疑い方」そのものを知らないのです。したがって推量したり判断することなどには到底至りません。それは小さい頃から常に誰かに「与え続けられ」てきたのであって、「自らが獲得した」ものは極めて少ないことにあると思われます。
 大変辛辣で不躾な事を長々と書き連ねましたが、このブロクをご覧になっておられる学生・生徒の皆さんに是非とも佐々木先生の提唱なさっておられる『常識を疑え』を、今一度真剣に考えていただける一助となればと、失礼ながら‘老爺心’からコメントさせていただきました。
∞ヘロン
2006/03/28 16:03
コメントありがとうございます。わたしも勇気づけられます。

おっしゃるとおり、自分の頭で考えられない人たちが多くなっているように思われます。また「常識を疑う」以前の「常識を知らない」状態の人たちも増えています。ですから、最近では「親の顔を見てみたい」ではなく、「親の親の顔を見てみたい」と思うことも多くなっています。

自分の頭で考えるということは、きっと面倒なことなのでしょう。ただ、まじめに考えている若者も多いので、わたしは彼らに期待しています。彼らの指針になれればと思っています。
佐々木哲
2006/03/29 00:41

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