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zoom RSS 資料としての系譜伝承

<<   作成日時 : 2006/02/26 03:52   >>

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 系図は、実証的研究ではまず無視される資料である。しかし系図・由緒書は、それが作成された時代の歴史叙述の一形態であり、時代の思潮や社会の動向をとらえるための絶好の資料である。歴史学だけではなく社会学・民俗学・文化人類学など学際的研究を通して人類史的視点から姓名・系譜のあり方を解明すれば、日本社会の特質を捉えることもできる。このように系図は貴重な資料であり、その調査・収集・保存・整理を体系的に進めることが急がれる。しかし、そのための基礎的な前提となる系譜学を資料学として確立するには、まだまだ未解決の課題が膨大に残されている。研究の空白はあまり広大である。
系図の使用法のひとつに、系図上の人物の業績内容を捨象して系図の形式に注目する方法がある。形式はそれぞれの時代ごとに不変である。それは、それぞれの時代にとって普遍的と思われているものを表象しているからである。そのような形式を研究することで、系図作成者の意図を越えて彼の思想を制約する歴史性を知ることができる。その歴史性は、歴史学が明らかにしようとする歴史的事実のひとつである。また形式の研究が進めば、形式を見ただけでどの時代の系図なのかも分かる。そうすれば年代同定のための基準にもなろう。
もうひとつ系図の内容に注目する方法もある。そのひとつとして、すっかり出来上がっている系図の記述をいちど解体し、そこからあらためて過去の破片を一つ一つ選り分けて整理し、新たな歴史像をつくり上げる方法がある。系図作者の解釈をいったん壊して、系図記述の内容をその属性まで分解する。人間の想像力はけっして無限定なものではなく、既存のものを延長させるものでしかない。もとになった史実を探究するために、内容を属性にまで分解して抽出する。そして、そこから作業仮説を立てて資料によって検証していく。
例えば沙々貴神社所蔵佐々木系図によれば、鎌倉後期の近江守護六角頼綱(佐々木備中守)の娘に参議左大弁俊雅の母という女性がいる。しかし頼綱と同時代の公卿に俊雅という人物はいない。『尊卑分脈』によれば、参議俊雅は平安後期の醍醐源氏流(醍醐天皇を始祖とする源氏)の人物である。もちろん鎌倉後期の人物六角頼綱と時代が一致しない。
同系図によれば、俊雅の母は平安後期の清和源氏頼光流である摂津源氏頼綱(三河守頼綱)の娘である。六角氏は宇多源氏流佐々木氏の惣領家であり、六角頼綱も公文書では「源頼綱」となる。そのため後世の人物が二人の源頼綱を混同してしまったのである。
通常ならば、この段階で沙々貴神社本の誤りを指摘して検証を終える。これでは系譜伝承は誤りが多いものだと結論づけるしかない。しかし、これでは系図研究はいつまで経っても確立されない。系譜伝承は口頭伝承と同様、多くの比喩に富んでいる。錯誤を何かしらの歴史的事実の象徴あるいは比喩として考察すれば、もとの事実にたどり着くことができる。「俊雅母」もそのような錯誤である。そこで「俊雅母」を隠喩と考え、そこから事実を選り分けていく。
まず「俊雅」から公卿という属性を探り当てる。そして六角頼綱の娘の一人が公卿に嫁いだという作業仮説をつくり、公卿の系図に当たる。すると『中山家譜』(18)で、中山定宗(権中納言)の母が「備中守源頼綱女」であることが分かる。中山家は白河院政期の摂政・関白藤原師実(頼通の嫡子)の子孫である花山院流藤原氏の分流で、公達だけが補任された近衛少将・中将(唐名羽林次将)を経て大納言に至る家格羽林家の一つである。六角氏にはもともと頼綱の娘が公卿に嫁いだという系譜伝承があったと考えられる。系図を作成する段階で『尊卑分脈』醍醐源氏流にある源俊雅の記事を見た系図作者が、「源頼綱女」をそのまま六角頼綱の娘と判断して、佐々木系図の六角頼綱の娘の項に「俊雅母」の記事を書き加えたと推定できる。このことはまた、沙々貴神社本の作者が『尊卑分脈』を参照していた歴史的事実を浮かび上がらせる。系図の錯誤から、1.六角頼綱の娘が公卿中山定宗の母であったという歴史的事実と、2.系図作者が『尊卑分脈』を参照していたという歴史的事実を明らかにできた。
このように系図記述の虚偽には作為と錯誤があるが、錯誤は史実の誤伝であり、そこには隠喩として史実が含まれている。そこで系図記述の誤りを作為と錯誤に区別して、錯誤が隠喩している史実を探究する。そのことで、これまで無視されてきた新たな史実を発見できる。系図を考察するには、錯誤を錯誤と判断したところで考察を停止するのではなく、さらに考察を続けて、錯誤の源流にある歴史的事実を注意深く選り分けていく作業が必要である。
実践に応用しやすいように、もう一つ実例を挙げておこう。沙々貴神社本や『寛政重修諸家譜』では、前述の鎌倉後期の頼綱の子息宗綱が左京大夫(従四位下相当)・備中守(従五位上相当)で、九カ国守護だったと伝える。しかし、これは南北朝期の氏頼の子息義信(法名崇綱)・満高(本名満綱、法名崇寿)兄弟の事跡を宗綱のものと混同したものである。実は義信の法名は崇綱であり、宗綱と間違われやすい。宗綱の事跡とされている左京大夫・備中守は、義信の弟満高のものであった(19)。『寛政重修諸家譜』宇多源氏佐々木系図(第四百之一)で宗綱の項に九カ国守護とあるのは、六角氏の所領が分布していた国の数と考えられる。このような錯誤は系図ではよくある。だから宗綱の事跡を一次資料によって否定しただけでは十分ではない。それを何かの隠喩と判断する必要がある。
これまで系図を資料価値がないと見なしてきた実証歴史学は、系図の錯誤を否定するにとどまり、せっかく歴史的事実の隠喩があるにもかかわらず無視してきた。実にもったいない話である。
また沙々貴神社本で父氏頼の晩年の事跡とされる右兵衛佐は、実は義信のものと考えられる。しかも沙々貴神社本では氏頼が補任された守護国を近江・若狭・丹波・但馬・伊賀と伝えているが、このうち丹波は義信の事跡と考えられる。義信は、貞治元年(一三六二)十二月二日に将軍足利義詮の加冠で元服しており(20)、その直後の貞治二年(一三六三)から翌三年(一三六四)のあいだ右兵衛佐が丹波・丹後守護であった。この右兵衛佐は、貞治二年(一三六三)十二月二十四日材木を石清水八幡宮造営のために送ることが命じられているが(21)、当時氏頼が禅律方引付頭人として石清水八幡宮造営を担当している(22)。この右兵衛佐が義信の可能性が高い。氏頼を右兵衛佐や丹波守護であったとする系譜伝承は、これらの事実を隠喩していよう。父子の事跡を混同することは系図ではよく見られる。
このように系図にある宗綱や氏頼の事跡を見て誤りだと指摘して、偽系図の烙印を捺すだけでは、資料としての系図を論じたことにはならない。これでは自分の想像力の無さを系図の所為にしているだけである。系図作者の意図や錯誤を明らかにするだけではなく、錯誤のもとの事実にまで到達しなければ、系図を研究したとはいえない。今までの資料論では、この視点が抜けていた。これまでの系図論は系譜叙述の作為や錯誤を指摘するものであり、系図を資料として評価する場合でも系図の形式に注目するだけに留まっていた。これまで歴史学は主観性を排除していたのだから、系図作者の主観性を研究しようという視点が抜けても当然である。私の立場はむしろこの主観性を読み解くことで、錯誤さえも資料にしてしまおうという欲張りな方法である。いや、無駄をしない節約的な方法といえる。

【注】
(18)東京大学史料編纂所写本『中山家譜』(原題『中山家系』)中山忠能差出、一八七五(明治八)年。
(19)左京大夫については、『花営三代記』応永三十一年十二月二十七日条。
(20)『花営三代記』貞治元年十二月二日条。
(21)『大日本古文書』石清水文書之六、菊大路家文書一五一号。
(22)『師守記』貞治三年四月十九日条。

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