佐々木哲学校

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zoom RSS 系譜記号論

<<   作成日時 : 2006/02/26 03:49   >>

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 系譜記号論の契機になったのは、ひとりの歴史的人物の実在をめぐる問題に興味をもったことである。その人物は、京都の隣国近江国の戦国大名六角義実である。彼は近江守護職を世襲した宇多源氏佐々木氏の嫡流で、足利将軍の養子となり、参議兼近江守に補任されたという。
 六角義実は、従来、近世初頭の系図作者沢田源内によって作り上げられた架空の人物と考えられてきた。家系・系図研究の入門書である太田亮『家系系図の合理的研究法』(30)をはじめ、一般読者向けの家系・系図関連の書物のほとんどで、沢田源内は偽系図作者の代表者とされている。しかし近江八幡市の郷土史家田中政三氏(故人)が義実実在説(31)を主張した。
 義実がこれまで架空の人物と見なされてきたのは、江戸中期の高名な和算学者建部賢明の著作『大系図評判遮中抄』で沢田源内が偽系図作者と激しく断罪され、しかも良質な資料を隈なく見ても義実という名の人物は見当たらないからである。実在しないと思いながら良質な資料を読めば、たしかに義実は実在しない。そして従来の歴史研究は、義実ぬきで合理的で自己完結的な歴史叙述をしてきた。そこに義実が入る隙間などなかった。義実に対してよほどの思い入れがなければ、彼の実在を信じることなどできない。
 このような中で田中政三氏は、義実の実在を信じて研究活動を続けた。その彼の研究も、旧家に残る家系図や編纂物など二次資料中心であった。いくら二次資料を集めても良質な資料で確認できなければ、歴史学者集団は実在を認めない。
 ところが義実は実在すると信じて資料を読み込んでいくと、すでに研究に使用されている良質な資料に、義実の実在を示す痕跡が多くあることが分かった。たしかに義実という名の歴史的人物は見つけられなかったが、義実と同じ事跡をもつ人物を発見できた。
 近江守護職は鎌倉時代以来、宇多源氏佐々木氏の嫡流六角氏が世襲していた。しかし六角氏綱が永正十五年(一五一八)に没してから弟定頼が天文六年(一五三七)に近江守護職に補任されるまで(32)、十九年にわたる空白期間がある。その間、定頼とはまったくの別人であり、六角氏家督の仮名「六角四郎」を称した者がいた。
 天文三年(一五三四)六月八日室町幕府十二代将軍足利義晴の婚礼の様子を記録した『天文三年甲午六月八日江州於桑実御台様むかへニ御祝目六』(内閣文庫)に、「四郎殿父子」が登場する。その直後の足利義晴上洛に関する『厳助大僧正記』(『厳助往年記』)同年六月二十九日条では、足利義晴の上洛に「六角四郎并小原」が供奉したと記されている。四郎殿が六角四郎であることが確認できる。さらに六角氏の菩提寺のひとつ長命寺の金銭出納帳『長命寺結解』(33)でも、天文三年(一五三四)十月から同四年(一五三五)七月にかけて、定頼(「御屋形様」)・義賢(「御曹司様」)父子とは別に「四郎殿様」が登場している。このうち同三年十月のものは、六角四郎が足利義晴に供奉して在京した際の滞在費としての支出であった。『長命寺結解』の四郎殿様が、『厳助大僧正記』に登場する六角四郎であることは間違いない。そして沙々貴神社所蔵佐々木系図や『六角佐々木氏系図略』(34)によれば、六角氏綱の嫡子義実の仮名(官途名を名乗る前の通称)はまさに四郎である。
 さらに義実は「近江守兼参議」という上流貴族/公卿(三位以上あるいは参議以上)に列する官職を有していたと伝えられている。そして実際に「江州宰相」という官途名をもつ人物が、『鹿苑日録』に天文五年(一五三六)五月から同八年(一五三九)五月にかけて登場する。江州は近江国を意味し、宰相は参議の中国風の官職名(唐名)である。江州は近江守か、近江に在国していた貴人を指しており、当時は近江守護六角氏が「江州」と称されていた。また参議は、政治を議論する役職で大臣・納言につぐ重職であった。借字を用いて「三木」と書くこともあった。定員が八人であったため「八座」とも呼ばれた。参議は、公的文書に署名するとき以外は唐名「宰相」「相公」で呼ばれた。『鹿苑日録』でも、江州宰相のことを「宰相」「相公」と呼んでいる(35)。ただし同書では、「相公」は足利将軍を意味していた。僧の中には官職名を通称とする者もいたが、『鹿苑日録』で「相公」と呼ばれている人物は僧ではない。「相公」と呼ばれている江州宰相は、将軍連枝か幕府有力者である。系譜伝承によれば義実は、母が十一代将軍足利義澄の妹であり、義澄の猶子になっていたという。まさに『鹿苑日録』で「相公」と呼ばれるに相応しい人物である。しかも当時「江州」と呼ばれていた六角氏である。
 この『鹿苑日録』は足利義満の菩提所鹿苑院の院主が書き継いだ日記である。しかも鹿苑院主は、官寺の住職の任免や/僧侶の取り締まりをする僧録を兼任していた。その鹿苑院主が書き継いだ日記『鹿苑日録』で、義実と同じ事跡を持つ江州宰相を発見したことの意義は大きい。
 さらに『鹿苑日録』を読み込んでいくと、天文八年(一五三九)三月の十代将軍足利義稙十七回忌の主催者になった人物「義久」を発見することができた。彼は法事のために五千疋を納めている。越前守護朝倉孝景が天文九年(一五四〇)六代将軍足利義教百回忌で納めたのが三千疋であった(36)ことと比較しても、義久の財力は大国の国主に相応しい。また彼の代理として法事に参加した五郎次郎には、十二代将軍足利義晴の御供衆が相伴した。御供衆は将軍の側近で、中には守護クラスの者もいた。このとき五郎次郎に相伴したのは細川右馬頭晴賢・大館左衛門佐晴光・伊勢守貞親であり、いずれも有力御供衆であった。このことでも義久と五郎次郎の格式の高さがわかる。この義久が、沙々貴神社本で足利将軍の猶子と伝わる義実の実名であることは確実である。そのことでまた同系図で十一代将軍義澄の猶子とするのは、十代将軍義稙の猶子の誤りと分かる。足利義澄の猶子という系譜伝承は、作為ではなく錯誤であった。将軍義澄の猶子を誤りと捨て去るのではなく、そこから足利将軍の猶子という属性を抽出すれば、十代将軍義稙の法事を主催した人物義久につながる。属性を抽出する方法が、錯誤を読み解くのには必要である。
 このように実名が異なっていたのでは、いくら義実を資料で見つけようとしても無理である。義実が実在するに違いないという主観性から出発したからこそ、結果として義実と同じ事跡をもつ義久に行き着くことができた。義実がいないという立場で読めば、義久には行き着かない。義久を見つけても六角義実と同一人物とは思わないだろう。結局、義実は実在しなかったと結論づけられる。このように、確実な資料を一つ一つ積み重ねていったとしても、確実に真実には至るとは限らない。ここでは、義実が実在するという自分の主観から出発したことで、義久という歴史的事実にたどり着くことができた。
 一般的には主観性と客観性は対立していると思われている。そのため、主観性から出発したことでかえって客観性にたどり着いたことは、哲学的にとても興味深い。
 義実が存在するという主観から出発して義久に行き着いたことは、資料がけっして主観の思いのままに解釈できるわけではないことを示している。認識主観が自らの概念を疑えば、資料も問いかけに答えてくれる。このように資料を読むときに認識主観を制約するものとして実在化するものが、歴史叙述の根拠である史実である。義実の実名が義久であったことの発見の意義は、歴史的事実が何であるかを考えるに当たっても重要な意義を有している。
 さらに滋賀県和田文書には義秀の死を悼む信長書状(37)が収められている。滋賀県山中文書(神宮文庫)では、織田信長包囲網を築いた六角承禎書状の文中に六角氏当主(大本所)として「義堯」が登場する(38)。義堯は、滋賀県内の木村文書・黒川文書のほか、上杉文書・河田文書・本善寺文書・吉川文書・小早川文書・山内文書など全国に書状を残している。
 『聚楽亭行幸記』『太閤記』では、後陽成天皇の聚楽第行幸に供奉した公家成り大名の一人として「義康」の名を見つけることができる。さらに『太閤記』では名護屋御留守在陣衆の中に、「江州八幡侍従・同息左京大夫」を見つけることができる。義康は秀次後の近江八幡山城主になっていたのである。左京大夫(三郎殿)は、佐々木系図で義康(義郷)の弟とされる八幡山秀綱(三郎・上総介)のことだろう。
 義実・義秀・義郷の三代は、義久(義実に相当)・義秀・義堯(義秀の弟義頼に相当)・義康(義郷に相当)の四代であった。実名が異なっていたのでは、いくら資料で探しても見つからないはずである。このようにして今度は義実が実在するものとして、合理的で自己完結的な歴史像が記述できるようになった。
 ちょっと待ってほしい、義実が実在しても/しなくても、どちらにしても合理的な歴史像が記述できることは何を意味しているのだろうか。従来の学説では義実を排除しても合理的な記述ができたため、義実の実在は否定されていた。そして今度は義実を考慮に入れても合理的に記述できるようになった。事実がひとつというのなら、これはまったくおかしな話である。実在の人物を実在していなかったものと主張していたのなら、合理的で自己完結的な歴史像が記述できるはずがない。しかし記述していた。
 実は理屈が通っているからといって、必ずしも正しいとはいえない。合理性は説得力を持たせるには必要だが、合理的に推論しても新発見はない。新発見が失敗からなされることからも分かるように、既存の合理性を打ち破るものである。発見のためには、むしろ非合理性を本質とみなす主観の力が必要である。
 義実の実在を示す資料はこれまでも読まれていた。ところが同じ資料でも異なった視点で読んだことで、異なる結果が導かれた。やはり資料を読むときに主観が大きく関わっている。資料を読んでいくうちに、自分の常識を打ち破るものが現れる。それが、主観性を超えた客観性が眼前に現れたということであり、資料が語る瞬間である。
 もちろん、そこに現れるものは歴史的個別性であり、ほかの似たものに当てはまるわけではない。それにもかかわらず、それとよく似たものにも当てはめていけば、学説と歴史との間は乖離していく。
 どの視点も必ず限界を有している。そして既存の学説の適用範囲を限定する新しい学説は、主観性を制約する根拠を体現した客観性と評価できる。ただしここで注意してほしいのは、既存の学説も完全に否定されたのではないことである。むしろ適用範囲を限定されたことで、自らの内容と一致して客観性を確保できる。もちろん新しい学説も適用範囲をもっている。しかし適用範囲をあらかじめ知ることはできない。そのため、どうしても適用範囲を越えて使用してしまう。
 このように主観性と客観性は二律背反的なものではない。一致することがあるからこそ、乖離しても気づかれない。そのため、主観が矛盾の存在に気づくかどうかが分かれ目となる。そのような矛盾は、まさに主観性と客観性が乖離したことを知らせる客観性の現われである。それに気づくことが、新発見となる。
 実は残そうと思わないで日常的に書かれた事務書類にも、作成者の主観性が入っている。人が物事を見るときには、必ず自分が使っている言葉のイメージを対象に当てはめながら見ている。主観から完全に離れた客観的な物の見方はない。そのため一次資料を読むときにも、作成者の主観性を考慮する必要がある。
 歴史学で重要視する一次資料では、人物が官職や通称で書かれていることが非常に多い。前述の『長命寺結解』でも「御屋形様」「四郎殿様」「御曹司様」の三人が登場した。資料作成者にとっては、官職や通称で誰を指しているのか特定できる。これは立派に作成者の主観性である。しかし当事者ではないわたしたちが見ると、誰のことなのかさっぱり分からない。実証歴史学でも人物を特定するのに意見が分かれるのは、このためである。確実な資料に基づいているからといって、歴史的事実が明らかにされるとは限らない。作成者の主観性を排除するのではなく、むしろその主観性を探究する必要がある。
 近江国内に義実・義秀・義郷の名を記した系図や編纂物が多くあるのは、彼らが実在していたことを記憶にとどめたいという近江人の心性のためである。全国の佐々木氏関係者の系図に義実・義秀・義郷を記されるという形式が定着したことを、ひとりの偽系図作者の意図に帰すことはできない。その実在を固く信じていた近江人によって、義実らを記した系図が受け入れられたのである。旧家に伝わる佐々木系図を形式と内容に分解するならば、義実らの記載は当時の人々が意識/無意識のうちに不変なものと信じた形式・書式といえる。義実らの実在を伝えたいという当時の人々の心性が明らかになる。
 義実らの実在を否定する見解では、定頼・義賢父子の二人を『長命寺結解』に登場する「御屋形様」「四郎殿様」「御曹司様」の三人の表記に振り分けながら当てざるを得ない。無難に歴史的事実を叙述することは、むしろ歪曲でしかない。この場合でも、実在が確認できる二人だけで三人分を理解していては、明らかに歪曲である。確実な資料に基づいていても、その結論が確実とはいえない。義実の実在を肯定する立場ならば、それぞれ定頼・義実・義賢に当てることができ、三人をそのまま三人として理解できる。
 歴史学では主観を排除することによってではなく、発想を逆転して、むしろ作成者の主観を明らかにしていく必要がある。このような観点に立てば、偽文書や偽系図・家紋も当時の人々の主観性を知るための資料である。またそのように主観性を知ることから始めることで、作為や錯誤が歴史的事実を隠喩していることを発見できる。
 日常的に書かれた事務的な書類にしても、彼らにとって必要なことを書き留めているため、そこには当然彼らの主観が入っている。歴史学が明らかにできる歴史は、そこに生きた人々が関係した歴史的事実である。そのような歴史的事実は主観性を排除することによってではなく、むしろ主観性を通してのみ明らかにされる。

【注】
(30)太田亮『家系系図の合理的研究法』立命館出版、一九三〇年。復刻版『家系系図の入門』新人物往来社、一九七七年。
(31)田中政三「巨大近江観音寺城二七の謎」(『戦国乱世武将城郭百科』歴史読本臨時増刊号、二二巻八号、一九七七年六月)。田中政三『近江源氏』(全三巻、弘文堂書店、一九七九−八二年)ほか。
(32)御内書案(『近江蒲生郡志』五八二号(巻二、五五六頁)。
(33)滋賀県長命寺文書(東京大学史料編纂所影写本)。『近江蒲生郡志』二五二二−三三号(巻七、一九九−二三七頁)に掲載されているが、誤植が多い。
(34)丸亀藩主京極家旧蔵『六角佐々木氏系図略』東京大学史料編纂所謄写本。
(35)『鹿苑日録』天文五年五月十四日条、同六年二月一日条、同八年五月十九日条、同八年五月二十日条、および同八年(『日用三昧七』)表紙の頭書。
(36)(天文九年)六月二十四日付朝倉入道宛大館晴光書状案(『福井県史』資料編2
中世・東京二六・内閣文庫所蔵文書『越前へ書札案文』二一号)。
(37)『福井県史』資料編2中世・滋賀県和田文書一号。
(38)十月二日付山中大和守宛六角承禎書状(神宮文庫所蔵『山中文書』三七四号)に、「義堯」の名が見える。

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