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『大系図評判遮中抄』を読むかぎり、沢田源内の華麗な経歴に驚かされる。まず青蓮院門跡尊純法親王に稚児として仕えたという。源内が単なる貧農(文中では「土民」)の子ではないことは明らかだ。さらに二代将軍徳川秀忠の息女で、後水尾院中宮となった東福門院和子の家司天野豊前守長信や、名門公家の師実流藤原氏権大納言飛鳥井雅章に仕えている。どうしたら身分社会である江戸時代に、貧農の子がこのような経歴をもつことができるのだろうか。しかも源内の父は阿部忠秋の重臣になっている。 実は江戸初期にはまだ身分は流動的であり、階層間移動も多く見られる。とくに豪農のほとんどは地方豪族の子孫であり、彼らが近世初期の開墾事業を指導していた(8)。彼らは郷士と呼ばれる存在であった。実際にそのような郷士から朝廷や公家・門跡に仕える者もあった。その実例として、聖護院門跡に仕えた諸大夫佐々木氏が摂津武庫郡西宮の郷士出身であったことを挙げることができよう(『地下家伝』)。諸大夫とは天皇の住居に昇ることを意味する昇殿は許されないが、四位・五位に至る家柄を意味している。幕臣であれば諸大名と同じ官位である。 沢田氏も郷士の出身であった。だからこそ源内の父は老中阿部忠秋に重臣として仕えることができ、源内自身も華麗な経歴をもつことができたのである。源内が父の跡を継がなかったのは、手癖が悪かったからではなく、彼が学者を目指していたからである。郷士を「種姓モ知サル凡下ノ土民」としたのは、建部賢明が身分社会がほぼ確立した江戸中期の人物であり、自分の時代の常識を過去に投影してしまったためである。自分の時代の常識を過去に投影することは、歴史学ではよくしてしまう過ちであり、実証歴史学者であればその過ちを犯さないためにも慎重にならなければならない。 また同書では、源内の母を「同邑ノ百性(姓)和田勘兵衛カ娘」としているが、実は和田氏も六角氏旧臣で郷士であり、その子孫に伝わる和田文書には織田信長書状や明智光秀書状・朝倉義景書状など良質な一次資料が含まれており、とくに光秀書状は信長の比叡山焼打ちの実態を知る貴重な資料として注目されている(9)。和田氏はそれだけの文書を有するほどの名門武家の子孫であり、やはり有力な郷士であった。 和田文書の影写本は東大史料編纂所にあるが、その多くには偽文書という書き込みがある。とくに朝倉義景書状については、それが本物の義景書状であるにもかかわらず、義景の署名が義秀と読み間違われた上で偽文書と書き込まれている。これは実証歴史学が自信を持っているはずの史料批判の基準が、資料そのものの真贋性ではなく、義秀は実在しないはずだという思い込みによってなされたことを示している。このような基準で選ばれた資料で歴史を再構成しても、それは歪んだものになる。史料批判は、偽文書の排除という美名の下で行われていたものの、結局は自分に都合のいい資料を選択していたことが分かる。 『大系図評判遮中抄』が義実・義秀・義郷の名のある資料をすべて源内あるいは源内一味の著作と見なしていることは、『江源武鑑』の初版が源内誕生前後の元和七年(一六二一)であることを知らなかったためである。これも重大な事実誤認である。その後も『江源武鑑』は版を重ねて、寛永四年(一六二七)、明暦二年(一六五六)に公刊された。好評だったようである。しかも『大系図評判遮中抄』刊行後の延享五年(一七四八)にも、『江源武鑑』は刊行されている。『大系図評判遮中抄』が相手にされなかったか、『江源武鑑』が復権したかのどちらかであろう。けっして版は破壊されてない。 また同書で「一年京都ニ於テ官職ヲ矯リ冒ス輩ヲハ、悉ク捕テ死刑ニ処セラレシカハ、源内大ニ驚き、忽ニ太輔ノ号ヲ停テ其身ヲ隠シ」とあるのも事実を誤認している。源内と氏郷は別人であり、前述の『京極氏家臣覚書抜萃』によれば、氏郷が京都所司代の取り調べを受けたことは間違いないが、丸亀藩主京極高豊の証言もあって嫌疑は晴れている。さらに氏郷と藩主高豊の交流が始まり、高豊の子息が氏郷の養子となっている。賢明はこの事実を知らない。賢明の情報源は明らかに偏っている。 さらに氏郷の娘婿を草医(町医者)としているが、京極氏の中興の祖佐々木導誉の菩提寺である勝楽寺所蔵の佐々木系図(10)によれば、その人物は有馬重雅(主計介)である。彼が氏郷の痛風を治療した人物であろう。天明年間(一七八一−八九)に『古方便覧』『疾医新話』を著した六角重任は、実名(諱)の一字である偏諱「重」の字が共通であり、また通称が「主計」であることから、有馬重雅の子孫と考えられる。『大系図評判遮中抄』で述べられているような草医ではなかったようだ。 『大系図評判遮中抄』後に幕府によって編集された公認の武家系図集『寛政重修諸家譜』では、沢田源内を糾弾した幕府旗本佐々木高重は佐々木庶流に分類されている。幕府も高重を庶流と見なしたのである。 一見、江戸幕府に仕えた者がその一族の嫡流に見えてしまう。しかし幕府出仕者が嫡流とは限らない。戦国時代に多くの名門武家が没落し、多くの下剋上があった。幕府も公認系図集『寛永諸家系図伝』と『寛政重修諸家譜』を編集するに当たっては綿密に調査しており、けっして諸家が提出した系図を鵜呑みにしなかった。『寛政重修諸家譜』で、高重が佐々木庶流とされたのはその代表例である。近世系図も、実は実証歴史学を重んじた儒学の伝統のもとで作成されている。系図だからといって、一概に粉飾や錯誤だらけとは思わない方がいい。 それに対して建部賢明は、高重が提出した系図を鵜呑みにしている。賢明の『大系図評判遮中抄』は、自分が正しいと信じていることを前提に推論を進めたものである。しかし前提が誤っていたのでは、いくら理屈を並べても結果が正しいはずはない。合理主義の限界がここにある。少なくとも実証主義ならば、ある一つの前提から出発したとしても、それを否定する資料が見つかれば前提を疑う必要があろう。しかも『大系図評判遮中抄』は冷静に議論を展開させたものではない。むしろ直情的でもある。 【注】 (8)佐々木哲「一七世紀日本の人口増加と階層間移動」(大塚勝夫編『経済史・経営史研究の現状』三嶺書房、七九−九五頁)。 (9)今谷明「比叡山焼き打ち」(『新修大津市史』三巻・近世前期、一九八〇年)九五頁。 (10)『六角佐々木氏系図略』所収。 |
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