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<<   作成日時 : 2006/02/26 03:48   >>

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 歴史的事実を、その痕跡から他者として顕在化することができる。歴史叙述をフィクション物語と同じだと批判する物語論は、このことを見逃している。同一資料を意図的に別の見方で見ることで、それまで排除されてきた歴史的事実を浮かび上がらせることができる。
 たとえば偽文書である。従来の史料批判では、偽文書は歴史的事実を歪曲するものとして排除されていた。しかし、偽文書も歴史の中で生み出されたものである。偽文書を排除することで、偽文書に含まれている史実も排除することになる。偽文書から読み取ることのできる史実があるという見方をすることで、新たに知ることのできる史実がある。そのため、偽文書を排除するのではなく、偽文書を資料として扱う方法を築く必要がある(39)。
 これまで資料と見なされなかったものは偽文書だけではない。絵画や神話、民間伝承の中にも多くの事実が含まれている。絵画に描かれている記号をていねいに読み解くことで、絵画が資料として扱うことができる(40)。文化人類学でもアフリカの無文字社会を研究し、太鼓の演奏によって歴史が正確に伝えられていたことを明らかにされてきている(41)。
 私の歴史研究も、この流れの中にある。偽系図作者が作品と考えられていた系図や編纂物だけに名が記載されているため、架空の人物というレッテルを貼られていた戦国大名六角義実・義秀・義郷の実在を実証したものだ。最初にその人物が実在したと仮定し、そのような視点から資料を読み込んだ。一次資料の中に彼らの名前を見つけることができないという経験は、彼らの非実在を意味するのではなく、実名が異なることを意味していると考えることにした。彼らの実在を疑うのではなく、むしろ彼らの実名を疑った。その結果、彼らの事跡とほぼ一致する人物を見つけることができた。やはり系図や編纂物で伝えられていた実名は異なっていた。これではいくら彼らの名前を資料で探しても見つからないはずだ。資料に実名が無いのは、実在しなかったからではなく、実名が異なっていたからだった。彼らの実名は義久(六角四郎、江州宰相)・義秀(亀寿丸、修理大夫)・義堯(大本所)・義康(左衛門督侍従)の四代だった。このことは、私も意図していなかった。資料が自ら語り出すというのは、このような意図していなかった結果に導かれた時の率直な実感である。
 一般に系図は資料的価値がないと考えられているため、系図や編纂物にのみ名前が記載されている人物の実在が、歴史学で疑われるのは当然である。しかし、系図に記されている名と実際の名が異なることはよくある。実は一次資料の世界では「北条早雲」という人物は存在しない。では北条早雲は実在しなかったのだろうか。いやそうではない。伊勢宗瑞が一般に「北条早雲」の名で知られている人物である。実は宗瑞自身は伊勢氏のままであり、しかも早雲とも名乗っていない。早雲は早雲寺殿という宗瑞の法号であった。
 また織田信長の弟信行の名も一次資料には見られない。信行は信長の同母弟であり、うつけ者と呼ばれた青年時代の信長に代わって、家臣林秀貞や柴田勝家らによって織田氏の家督に擁立された人物である。一次資料に名が見られない信行は架空の人物だろうか。実は、一次資料でみるかぎり彼の名は「信成」「達成」「信勝」である(42)。実名は違うが実在の人物だった。系図上の名が発見できないからといって、その人物が実在しないと判断するのは早計である。
 丹後(現京都府丹後地方)の戦国守護一色義道の名も一次資料には見られない。しかし、丹後を本国とする「修理大夫義辰」という人物が一色昭辰書状(43)や一色昭国書状(44)などの一次史料に見られる。一色昭辰と一色昭国の花押は近似しており、同一人物と考えられる。一色昭国(昭辰)は、京都追放後に毛利氏を頼って備後国鞆の浦に下向した足利義昭に仕えて側近となっており、その書状の文中にある一色義辰が反織田信長包囲網の一員だったことが分かる。このことから系図類で「義道」と伝えられている人物が、実は一色義辰であったことが分かる。
 さらに能登の戦国守護畠山氏(匠作家)の当主の実名も、やはり軍記物や系図類のとおりではない。義統−義則−義綱と伝えられていた畠山氏歴代は、実は義総(徳祐)−義続−義綱−義隆であった。しかも資料で確認できる畠山氏重臣長氏の実名も総連−続連−綱連と続き、当主の実名が義総−義続−義綱−義隆であったことを裏づけている。系図どおりの名が一次資料に無かったとしても、架空の人物とは即断できない。むしろ系図や編纂物に書かれている人物の事跡を史実と仮定して、名を疑う必要がある。そのことで系図上の人物の実在を示すことができる。
 六角氏系図の義実・義秀・義郷もそうである。彼らの名が一次資料に見られないからといって、彼らの実在を否定することはできない。実際に良質な資料によって実際の名は異なったものの、彼らの実在を実証できる。それにもかかわらず、これまで彼らの実在が否定され続けてきたのは、江戸中期の和算学者建部賢明が著した『大系図評判遮中抄』という二次資料を信用して、六角義実らの実在を示す資料を排除し続けてきたからである。それがどんなに高名な学者によって書かれたものでも、後世に書かれた二次資料を無条件に信じてはいけない。
 資料を記した人物から見て身分の高い人物の場合、実名を記さないことが多い。それは実名で呼ぶことが失礼に当たり、また実名を記さなくても誰の行動か特定できたからである。六角義実も「四郎殿」「四郎殿様」「江州宰相」「相公」と記されている。そのため後世の者が読むと、別人の行動としても/当の人物が実在しないものとしても、資料を読むことができてしまう。そのため、読み方によって同一の一次資料から異なった解釈が簡単にできる。
 このように読み方によって同一の資料から異なった解釈ができる。系図に書かれている内容は史実ではないだろうという目で一次資料を読んでしまうと、系図の内容を支持する内容が含まれていても読み取ることができない。それに対して偽系図の記述にも史実が含まれているだろうと思いながら、それを確認するように一次資料を読んでいくと、その内容が一次資料によって確認できる。歴史研究では、既存の概念の適用範囲を限定する現象を本質と認識する主観の力が重要である。
 既存の概念の適用範囲を限定するものとして現われた現象を本質と規定できれば、そのときに初めて「資料の方から語り出す」のである。私も六角義実は実在しないという既成概念を疑って、義実が実在するという主観から始めたことで、義久の実在という史実に行き着いた。義実と同じ事跡を持つ義久を発見できたのである。そのように見てくると、六角氏の重臣に進藤新介久治(45)・深尾次郎右衛門尉久吉(46)・山中橘左衛門尉久俊(47)がいることも、重要なこととして眼前に浮かび上がってくる。当時、主君が自らの実名の一字を重臣に給付する慣行があったからである。さらに当時六角氏の旗下にあった北近江の戦国大名浅井久政(左兵衛尉、下野守)の名乗りも注目できる。このとき資料の方から、義実ではなという名であることを語ったといえよう。私はという名を意図していなかったからである。
 これまで六角義実らが関係していた歴史的事実を記述するのに、彼らを抜きにしても合理的に記述できた。しかし合理性は集団の承認を獲得するためには必要だが、真であることの保証にはならない。ひとつの集団における統一的見解は主観性の集合であって、無条件で客観性と一致するものではない。そのため、脱構築の考えを受け入れないならば、実証的研究も真に実証的なものにはならない。主観が常識を疑うならば、本当に資料の方から語り出す。

【注】
(39)網野善彦、前掲『日本中世史料学の課題◆系図・偽文書・文書』弘文堂、一九九六年。
(40)五味文彦『中世のことばと絵』中公新書、一九九〇年。
(41)川田順造『無文字社会の歴史』(岩波書店、一九九〇年)、および同著『口頭伝承論』(河出書房新社、一九九二年)。
(42)新井喜久夫「織田系譜に関する覚書」(『清洲町史』四八三−五四〇頁)、高木昭作・谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館、一九九五年)。
(43)『大日本古文書』吉川家文書四九三号。
(44)『大日本古文書』上杉家文書六七七号。『新潟県史』資料編3中世、七六〇号。
(45)『福井県史』資料編2中世、京都府真珠庵文書八〇号。
(46)「長命寺本堂鰐口銘文」(『近江蒲生郡志』巻七、一四四頁)。
(47)天文七年九月十七日付橘兵衛尉・美濃部六右衛門尉宛山中橘左衛門尉久俊起請文(神宮文庫所蔵『山中文書』二〇七号)。

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コメント(9件)

内 容 ニックネーム/日時
お久しぶりです。
先日、中山氏系圖第一版をマイ・ブログに投稿しました。その後、中山氏縁の方々と資料交換が出来、第二版を先ほど再投稿しました。
よろしかつたら、ご覧下さいませ。
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http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/9bfe2db20cd67dc990da08d0b5e1a20c
∞ヘロン
2006/06/06 15:02
中山氏系図を拝見させていただきました。近江と尾張の関係を知る上で参考になりそうです。
佐々木哲
2006/06/08 22:17
早速中山氏系圖を参照いただきまして、どうもありがとうございました。先生の書いておられる系圖に対する考え方やとらえ方は、常に参考に参考にさせていただいております。「系図は貴重な資料であり、その調査・収集・保存・整理を体系的に進めることが急がれる」は私も共感しております。今回は、中山氏の勝政および勝尚の末裔の人達とほぼ同時に直接交流できたことで、まさに「生きている系圖」となりました。これからも、新たな発見がある度に更新していきたいと思っています。
猶猶 水野氏の史料で『尾陽雑記』の記事中「信元下寂腹の女子」とありますが、これは「信元配下の妾腹の女の子」という意味と捉えてよろしいのでしょうか。大漢和、国語、大辞林、中国語、古語など各辞典を引きましたが、ヒットしませんでした。お教え願えれば幸いです。
∞ヘロン
2006/06/09 05:19
その前後の文はどのようになっていますか?
佐々木哲
2006/06/10 01:45
これは系圖の人名添書なのですが、
「某――此与次右衛門事、元は下野守家来にて他名なり、しかるに信元下寂腹の女子少かたは(ママ)にて、これを与次右衛門に嫁して水野を授く、さるによりて与次右衛門子ともは歴然信元の孫也」
とあります。現在は不適切な語がありますが、検証のためそのまま記載しました。

∞ヘロン
2006/06/10 05:03
「下寂腹」には、おそらく誤字があるのでしょう。意味は妾腹でいいと思います。
佐々木哲
2006/06/10 11:12
大変お忙しいところ、ご親切にお教え下さいまして誠にありがとうございました。m(__)m
この「尾陽雑記」は孔版印刷ですから、転記の際に写し違いがあったのかも知れませんね。「誤字」にまでは、考えが至りませんでした。
これでスッキリしました。改めて御礼申し上げます。
∞ヘロン
2006/06/10 16:55
昨日お教えいただいた「下寂腹」に関連した記事を投稿しましたので、ご報告いたします。
いつもご親切にご対応いただきまして、本当にありがとうございます。

http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/61881f5115052b49a129ca672a691005
∞ヘロン
2006/06/11 18:36
どういたしまして。
佐々木哲
2006/06/13 01:30

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