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zoom RSS 歴史学における科学革命

<<   作成日時 : 2006/02/26 03:47   >>

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 発想の転換は、確実な資料を一つ一つ積み重ねてもできない。異なる視点を持ち込む必要がある。異なる視点で作り上げた作業仮説を、良質な資料によって実証するのである。実証できれば、同一資料を使って通説とは反対の結論を導き出すことができたことになる。これは、実証的研究も研究者の見方に束縛されていることを示すとともに、歴史像を転換するという歴史学における科学革命の方法を示している。
 しかし歴史像の転換は既存の歴史像の全てを否定するものではなく、既存の研究方法で明らかになった史実を認めた上で、既成概念では明らかにできなかった史実も史実として認めるものである。
 例えば、六角氏歴代のうち義久・義秀・義堯・義康らの実在が認められたからといって、これまでの六角氏研究のすべてが否定されるわけではない。後世に書かれた『大系図評判遮中抄』の記述のみを信じて義久(系図では「義実」)らの実在を否定した見解は否定されるが、定頼・義賢・義治権力に関する実証的な研究については、近江在国権力と規定し直すというように適用範囲を限定することで妥当性を獲得する。このように室町時代の六角氏の守護権力に関する研究(48)を全面否定するものではない。義久が近江守護職にあった天文五年(一五三六)までの間も、定頼が義久を後見しており、義久の守護在任期間を含めて実質的には定頼が守護だったと考えられる。義久(系図では義実)は存在しないという前提は変更されるが、義久と定頼の関係をきちんと規定すれば、定頼に関する研究は妥当性を獲得する。つまり適用範囲は限定されるが、否定はされない。
 天文期における定頼の政治的位置の重要性を強調した研究(49)や、天文六年(一五三七)以降に定頼が口入者として幕政に関与したことを明らかにした研究(50)、さらに足利義晴を擁立して幕府を後見した定頼が京兆専制の主体細川晴元と対等に対峙・両立していたことなどを明らかにした研究(51)は、義久らの実在と矛盾するどころか、むしろ義久が天文五年(一五三六)以降「江州宰相」として登場する事実を支持していよう。
 ところで信長は、天正二年(一五七四)三月十八日付けで信長が従三位参議に補任されている。それにともない信長は上洛しているが、『尋憲記』同年三月二十四日条は「一、京都者奈良見物ニ罷下、雑談トテ人ノ申候、信長ハ近江殿成候、子チヤせンハ将軍罷成候、悉皆二条殿へ申、如此候て、一段京都ニテ二条殿御ヲボヘノ由候、関白も信長へ被相渡候て可被下由、申トノ沙汰也」と伝えている。当時、信長が近江殿になり、信長の子息北畠信雄(茶箋)が将軍になるという噂があったことが知られる。この信長がなると噂された近江殿は、まさしく近江殿であり参議であった江州宰相義久の立場であろう。
 実際に天正四年(一五七六)には近江国蒲生郡の安土城に移っている。このことは信長が近江殿になるという噂が単なる噂ではなかったことを示している。
 信長がなると噂された近江殿の地位にあった義久・義秀・義堯は、単なる守護ではない。沙々貴神社本佐々木系図でもいうように、将軍後見ともいうべき地位と考えられる。実際に『親俊日記』天文十一年九月四日条では、義久・義秀(亀寿、公能)父子を「御内書父子」と記している。彼らは、在地権力義賢・義治が六角氏家臣団と対立すれば、家臣団によって担がれる潜在力を有していた。しかも定頼・義賢・義治三代で正式に近江守護職に補任されたことが確認できるのは定頼のみである。そのような義賢・義治の権力基盤の脆弱さを示すものが、六角氏式目(義治式目)の性格に反映していよう。家臣団が定めた分国法を主君義賢・義治が承認する形になっていることを指摘した研究は、そのことを支持する。戦国期六角氏の直状に代わって発給された六角氏奉行人奉書の研究(52)や、六角氏式目の所務立法に関する研究(53)は、義賢・義治権力基盤の弱さを説明する実証的研究として、むしろ価値は高まろう。
 このように定頼・義賢・義治の系統が六角氏当主という前提で進められた研究は、破棄されない。むしろ大本所義久・義秀・義堯と在地政権定頼・義賢・義治の関係が規定されれば、大本所を奉じた六角近臣団と対立する在地政権という構図が浮かび上がるため、そのような在地権力の限界を実証する研究として再評価されることになる。
 歴史像の転換によって既存のもの全てが否定されるわけではない。既存の研究方法で明らかになった史実を認めた上で、それまで明らかにできなかった史実を史実として認めるものである。新説と旧説の関係は、新説が旧説の適用範囲を限定することで、両説ともに自らの内容に一致するというものである。そのことで歴史の多様性を記述できるようになる。

【注】
(48)下坂守「近江守護六角氏の研究」(古文書研究一二号、一九七八年)。今谷明「近江の守護領国機構」『守護領国支配機構の研究』(法政大学出版局、一九八六年)。細溝典彦「六角氏領国支配機構の変遷について」(年報中世史五号、一九八〇年)。
(49)今岡典和「六角氏式目の歴史的位置」(有光友学編『戦国期権力と地域社会』吉川弘文館、一九八六年)。同氏書評「今谷明著『室町幕府解体過程の研究』」(史林六九−四、一九八六年七月)。
(50)奥村徹也「天文期の室町幕府と六角定頼」(『米原正義先生古稀記念論集 戦国織豊期の政治と文化』所収、一一九−五一頁)。
(51)西島太郎「足利義晴期の政治構造−六角定頼『意見』の考察」(日本史研究四五三号(二〇〇〇年五月)、一−二八頁)。
(52)宮島敬一「戦国期における六角氏権力の性格−発給文書の性格を中心にして」(史潮新五号、一九七九年)。勝俣鎮夫編『中部大名の研究』(戦国大名論集4、吉川弘文館、一九八三年)に再録。
(53)勝俣鎮夫「六角氏式目における所務立法の考察」(岐阜大学教育学部研究報告・人文科学一七号、一九六八年)。同著『戦国法成立史論』(東京大学出版会、一九七九年)に再録。

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コメント(2件)

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「歴史像の転換によって既存のもの全てが否定されるわけではない。既存の研究方法で明らかになった史実を認めた上で、それまで明らかにできなかった史実を史実として認めるものである。新説と旧説の関係は、新説が旧説の適用範囲を限定することで、両説ともに自らの内容に一致するというものである。そのことで歴史の多様性を記述できるようになる。」
刊行予定の歴史物語「反信長」では、まさにこの辺りを、顕現されることを期待します。
さわだ
2006/04/23 00:44
ずいぶんと長く引用されましたね(笑)。わたしが執筆するものは、必ずそのようなスタンスで書かれていますので、期待にそえるかと存じます。
佐々木哲
2006/04/25 14:12

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