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zoom RSS 史料批判と系譜伝承

<<   作成日時 : 2006/02/26 03:45   >>

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 『江源武鑑』は、系図作者沢田源内の著作として偽書のレッテルを貼り続けられてきた。沢田源内は自らを鎌倉草創期以来の近江守護佐々木六角氏につなげるために、戦国期六角氏歴代に義実−義秀−義郷の三代を加筆して、自ら義郷の嫡子氏郷(義綱)と名乗ったという。しかし『江源武鑑』の初版は元和七年(一六二一)であり、氏郷はちょうどその年に生まれている。『江源武鑑』を彼の著作とすることはできない。しかも氏郷と同時代の記録『京極家臣某覚書抜萃』(54)によれば、氏郷は同じく近江守護佐々木氏の子孫である讃岐丸亀藩主京極高豊と親交があり、高豊の子息を養子に迎えている。また相国寺九九代愚渓等厚や一〇〇代住持如舟妙恕も氏郷と親交があり、とくに如舟妙恕は氏郷が著した天竜寺所蔵『夢想国師俗譜』(55)の奥書を記している。当時の人々は氏郷を佐々木六角氏の子孫と認めていた。
 これまでの歴史学の言説は、江戸中期の和算学者建部賢明の『大系図評判遮中抄』を判断基準にして、『江源武鑑』を排除していた。『大系図評判遮中抄』は、宝永五年(一七〇八)五月二十七日付の佐々木定賢著『佐々木氏偽宗弁附』(56)がもとになっている。江戸初期の元和七年(一六二一)に初版が出た『江源武鑑』を、後世に書かれた二次資料『佐々木氏偽宗弁附』『大系図評判遮中抄』を判断材料にして否定したのでは本末転倒だろう。資料的価値の判断には、このように歴史学者の主観が入っている。
 沢田源内は、沙々貴神社所蔵佐々木系図の定重流沢田氏では「郷重」と記され、万治三年(一六六〇)に没したという。彼が源内と特定できたのは、皮肉にも『大系図評判遮中抄』で源内の母が和田氏だと記されていたからである。沙々貴神社本で郷重の弟重秀の項に、母が和田氏だと記されている。『大系図評判遮中抄』を信じることで、逆説的にも源内が万治三年(一六六〇)に没したことが確認できた。源内は承応年間(一六五二−五)に仕官活動をしており、その直後に没した。仕官失敗と関係があろう。『大系図評判遮中抄』は、万治三年(一六六〇)に没した沢田源内と、その後も活動して元禄七年(一六九四)に没した佐々木氏郷を同一人物と見なす誤りをしてしまった。
 このように見てくると沢田源内の「源内」という名乗りも、『大系図評判遮中抄』の誤りである可能性がある。「源内」という名にこだわらないことで、むしろ沢田源内の事跡を知ることができると考えられる。彼の実家が老中阿部忠秋に仕官していたことに注目すれば、彼の本当の行動を跡づけることができるだろう。
 武蔵国忍藩主阿部家の記録『公餘録』(57)によれば、阿部家の重臣に沢田氏がいる。延宝三年(一六七五)六月二十三日条・同年十二月二十二日条(五〇石加増)に沢田杢之丞が登場し、天和二年(一六八二)八月二十一日条にも沢田杢之丞と茂兵衛が登場する。さらに同年十一月十六日条によれば、沢田杢之丞は藩主阿部正武の息女於亀と会津藩主保科正容(肥後守)の結納で名代を勤めている。また翌々十八日の能の次第にも沢田勘右衛門と杢之丞が登場する。その後も貞享四年(一六八七)二月十八日条に沢田杢之丞が登場している。元禄四年(一六九一)二月十八日条では阿部正武の京都上洛の御供の一人として沢田忠与が登場する。それだけではなく沢田氏の母方和田氏についても、元禄十一年(一六九八)二月五日条(第一巻末)で「和田権太夫と申儒者弐拾扶持ニ而被 召出候」とあり、和田氏が儒学者として阿部家に仕えたことが分かる。この沢田杢之丞(忠与)が源内の弟であろう。
 これまでは『大系図評判遮中抄』を信用できる二次資料と判断した上で、一次資料に義実−義秀−義郷の実名が見られないことも手伝って、彼らに架空の人物というレッテルを貼っていた。しかしそれだけに留まらず、彼らの名の記された資料をすべて偽文書と判断した。さらに本物の一次資料に彼らの名があるならば、学説を疑わなければならないのに、その一次資料に偽文書というレッテルを貼っていた。
 実際に、六角義秀死去の報に接した織田信長によって書かれた浅井長政宛織田信長書状(58)を含む滋賀県和田文書は、近年まで、偽文書の扱いを受けてきた。東大史料編纂所にある滋賀県和田文書の影写本には、余白に「偽文書」というメモ書きが残されている。また滋賀県百済寺文書にも同様のメモが記されている。しかし近年、和田文書に収められている明智光秀書状が比叡山焼打ちに関する詳細な資料として再評価されたことで、『新修大津市史』でも明智光秀書状が紹介されているほか(59)、『福井県史』では前述の織田信長文書をはじめいくつかの文書が紹介されている(60)。
 さらに和田文書には本物の朝倉義景書状(61)があるが、調査官は署名「義景」を「義秀」と読み誤った上で、偽物の六角義秀書状との烙印を捺した(62)。厳しい史料批判の基準が、紙の材質・書式・筆跡ではなく、六角義秀は実在しないという思い込みであったことが分かる。従来の史料批判の基準が疑われる。同書状は偽文書ではなく、朝倉義景書状であった。いちどレッテルを貼ってしまうことで、真実が真実と見なされないことがよく起こるが、和田文書はその好例であろう。
 もちろん系図の記述をそのまま信じることはできない。しかし系図には虚偽が多いことを認めた上で、虚偽を作為と錯誤に区別するならば、そこから多くの史実を明らかにできる。
 まず作為には、それが作成された意図や背景を知ることで当時の人々の心性を知ることができる。さらに錯誤にはもとになった史実が確実に存在する。そのため錯誤を史実の隠喩として読み解くことで、もとの歴史的事実にたどり着くことができる。
 そのような資料を排除すれば、その内容も排除され続ける。しかし資料として認めるならば、これまで認められなかった歴史的事実を汲むことができる。確実な資料によってだけ歴史像を構築しようとする試みは、実は歴史を矮小化する。歴史に忠実であろうとして、むしろ歴史を歪めてしまうのである。

【注】
(54)『六角佐々木氏系図略』(東京大学史料編纂所謄写本)に所収。
(55)東京大学史料編纂所影写本。
(56)『系図綜覧』上巻(名著刊行会、一九七四年)に所収。
(57)児玉幸多校訂『阿部家史料集』一、吉川弘文館、一九七六年。
(58)『福井県史』資料編2中世、滋賀県和田文書一号。
(59)『新修大津市史』3近世前期、第一章「天下への道」、第三節「山門焼き打ち」九五頁。
(60)『福井県史』資料編2中世、滋賀県和田文書。
(61)(元亀元年)十月十五日付和田源内左衛門尉宛朝倉義景書状(『福井県史』資料編2中世、滋賀県和田文書二号)。
(62)東京大学史料編纂所影写本の滋賀県『和田文書』に、「偽書」とメモ書きされている。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
寛文9年10月佐々貴管領源朝臣氏郷差出し河内大明神之記という古文書があるようですが、氏郷はかなりの博学だったのでしょうか。
堀尾岳行
2006/12/04 23:15
佐々木氏郷は博学の学者だったようです。そのために、多くの書籍や文書・系図が書き残されているのです。

江戸初期、京都六条に佐々木氏の嫡流が住んでいたようで、地方の佐々木一族が六条佐々木氏に系譜の鑑定・作成を依頼していることを示す資料があります。そのれが氏郷なのか、別の人物なのかはいまのところ分かりません。
佐々木哲
2006/12/05 13:21

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