佐々木哲学校

アクセスカウンタ

zoom RSS 江州宰相の研究・序

<<   作成日時 : 2006/02/24 21:43   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 『鹿苑日録』天文五年(一五三六)五月十四日条に、江州宰相という人物が登場する。天文八年(一五三九)五月十九日条および二十日条には、宰相が上洛および下向した記事がある。この記事に関する頭書が、『鹿苑日録』十六巻(『日用三昧』七巻)の表紙にあり、この人物は「相公」と記されている。宰相も相公も参議の唐名であり、一般的には宰相を相公と言い換えても当たり前だと思われる。このように何でも当然だと言って受け流しては、そこで探究は終わってしまう。しかし同書で、ただ「相公」とのみ記す場合は現職の将軍を指す。つまり当時の『鹿苑日録』の用語法からすれば、江州宰相は現職の将軍か/将軍候補者である。これでは、この人物がこれまで注目されなかったことが不思議だ。当然という言葉で片付けていては、気付かない。これが、常識を疑うことが大切な理由である。しかも当時、足利氏で近江(つまり江州)に逃亡していた人物はいない。ますます探求心をくすぐる。『鹿苑日録』でもそうだが、近江守護を江州太守と呼ぶように国名で当国の守護を指すことが多い。この用語法によれば、江州宰相は近江守護六角氏で参議という人物を指す。
 実は『六角佐々木氏系図略』(1)や沙々貴神社所蔵佐々木系図を探せば、従三位参議兼近江守の六角義実がすぐに見つかる。彼は幕府から近江守護に補任され、朝廷からも官職近江守(国司)に補任された。父氏綱も近江守に補任されており、近江守護六角氏にとって、近江守は単なる名誉職的な王朝官職ではなく実利的官職であった。
 祖父高頼は応仁・文明の乱で西軍として反幕府的行動をとり、その後も九代将軍足利義尚(義熙)・十代将軍義稙(義材、義尹)と二代にわたる将軍親征を受けた。しかし十一代将軍義澄(義高)に許されて近江守護に復職すると、今度は一転して幕府の保護者となった。
 明応七年(一四九八)正月今川氏によって養われていた義澄妹が上洛して(2)、氏綱に嫁した(3)。そのため、明応八年(一四九九)に「流れ公方」義稙が再起を図って北陸より上洛を目指したときには、高頼・氏綱父子は義稙の呼びかけを拒否して、義稙の上洛軍を近江坂本で破った(4)。そして氏綱は近江守に補任されて、朝廷からも六角氏が近江国主の実権を持つことを認められた。
 氏綱の嫡子義実は近江/江州と呼ばれるに相応しい。しかも参議の唐名は宰相である。系図で参議と伝わる義実のほかに、江州宰相にぴったりな人物はいない。さらに義実は、十一代将軍足利義澄の猶子であったと伝わる。足利将軍の猶子であれば、将軍の別称「相公」で呼ばれても不思議ではない。
 ところが佐々木氏/六角氏研究の古典的教科書『近江蒲生郡志』では、氏綱には子息がなく、弟定頼が六角氏家督を継承したとされている。もちろん義実の実在を主張する立場もあったが(5)、義実は実在しなかったという立場が通説である。義実が偽系図作者沢田源内の著作と考えられている古典籍にのみ登場し、良質な資料に登場しないからだという。しかし、そのような先入観を抜きに『鹿苑日録』を読めば、江州宰相は義実にこそ相応しい。『鹿苑日録』にきちんと登場している。義実を架空の人物とする常識こそ、疑う必要がありそうだ。

【注】
(1)丸亀藩主京極氏旧蔵(東京大学史料編纂所謄写本)。同書には六角佐々木家系略のほかに、(年未詳)十二月九日付京極高豊宛六角氏照(氏郷)書状写、京極氏家臣某覚書抜萃などが含まれている。
(2)『公隆公記』明応七年正月九日条、および同月二十四日条。
(3)沙々貴神社本佐々木系図では、氏綱の母を堀越公方足利政知娘とし、正妻を古河公方足利政氏娘としている。しかし年代的にも、明応七年に上洛した足利政知娘が氏綱正妻と考えられる。
(4)『鹿苑日録』明応八年十一月二十二日条。
(5)ただし『野洲郡史』(上巻、二五二−四頁)は義実は実在の人物であると明言している。近年でも、『五箇荘町史』(一巻古代・中世、四三五−四〇頁)で、六角義実の実在を主張した拙論「天文期六角氏の系譜の研究」戦国史研究三〇号(一九九五年)の内容が取り上げられている。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文

恋愛哲学

江州宰相の研究・序 佐々木哲学校/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる