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zoom RSS 六角隆頼

<<   作成日時 : 2006/02/24 21:42   >>

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 これまで、六角氏綱の跡はただちに弟定頼が継承したと考えられてきた。しかし氏綱(佐々木四郎、近江守)の没年は永正十五年(一五一八)であるにもかかわらず、定頼(弾正少弼)の近江守護職補任は天文六年(一五三七)である(6)。ここに十九年間の空白がある。これをどう理解すればいいだろうか。
 実は、山津照神社文書に、大永六年(一五二六)五月二十八日付青木社家中宛六角隆頼願状がある(7)。内容は、祈願が成就したときには近江甲賀郡内で所領を寄進するというものである。

   願状
  右意趣者心中之祈願、為成就之上者、於江州甲賀郡可加社領
  候、以此旨可抽丹誠者也、仍如件、
   大永六丙戌
    五月廿八日  隆頼(花押)
     青木社家中

 近江国甲賀郡内で所領を自由に寄進できる地位にあったのは六角氏当主であり、『坂田郡志』で六角氏としているのは妥当だろう。この人物は誰だろうか。
 実は『朝倉始末記』巻三のうち「宗滴敷地陣取、附金吾昔年発向諸国之事」で、大永五年(一五二五)五月上旬に、江州佐々木六角高頼が浅井退治の軍を起こしたことが記されている(8)。北近江で北郡守護京極氏から自立する動きを見せた浅井亮政を、六角氏が牽制したのである。しかし先々代六角高頼(行高、大膳大夫)は五年前の永正十七年(一五二〇)に没しているため、『朝倉始末記』の記述は一般的には単なる誤りだと考えられる。しかし大永年間(一五二一−二八)に六角隆頼という人物が実在したのであれば、誤りではない。むしろ事実である。六角隆頼願状も浅井退治に関するものと考えられる。
 そして、ほどなく資料に六角四郎という人物が現われる。この六角四郎が、六角隆頼と同一人物と考えられる。

【注】
(6)御内書案。『近江蒲生郡志』五八二号(二巻、五五六頁)に掲載。
(7)山津照神社文書(東京大学史料編纂所影写本)。『坂田郡志』二一七号。
(8)『福井市史』資料編2古代・中世、八六〇頁。

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