佐々木哲学校

アクセスカウンタ

zoom RSS 足利義晴祝言と四郎殿父子

<<   作成日時 : 2006/02/24 21:41   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 管領細川氏(細川京兆家)内部における高国と晴元の抗争によって、十二代将軍足利義晴は近江への逃亡生活を余儀なくされ、六角氏の居城観音寺場内にあった桑実寺に仮幕府を開いた。そのような中での天文三年(一五三四)六月に、六角氏の仲介で将軍義晴と前関白近衛尚通の娘が婚礼を挙げた。場所は桑実寺であった。そのときの模様を記した『天文三年甲午六月八日江州於桑実御台様むかへニ御祝目六』(内閣文庫所蔵)に、「六角殿ゑほしにて御参、御色直ニハ四郎殿父子御参、十合十荷御進上之、御一献参」とある。この記事によれば義晴の婚礼に六角定頼が参上し、御色直しには六角四郎父子が参上している。定頼と六角四郎は別人として記述されており、同一人物ではありえない。
 では定頼の子息義賢はどうだろう。彼の仮名はたしかに四郎である。しかし義賢が四郎として初めて登場するのは、『鹿苑日録』天文六年(一五三七)正月二十七日条である。しかも後述する近江国内の一級資料『長命寺結解』では、定頼(「御屋形様」)・義賢(「御曹司様」)父子とは明らかに別人物である「四郎殿様」が登場する。実は天文三年(一五三四)当時義賢はまだ元服前の十四歳であり、当時すでに元服して子息もいた四郎殿とは明らかに別人物である。このように見てくると、四郎殿は、定頼以前の近江守護であった人物と考えられる。前述の浅井退治の六角隆頼と同一人物であろう。
 義晴は婚礼を挙げた天文三年(一五三四)に帰京した。『厳助往年記』(『厳助大僧正記』)天文三年六月二十九日条に「大樹坂本御滞留。六角四郎并小原等供奉仕云々」とあり、桑実寺から坂本に移った将軍義晴に六角四郎と大原高保が供奉したことが分かる。大原高保は氏綱・定頼の実弟で、幕府奉公衆の佐々木大原氏を継いでいた人物である。六角四郎は、前述の『御台様むかへニ御祝目六』に登場した四郎殿と同一人物である。定頼とも義賢とも別人である六角四郎は、沙々貴神社所蔵佐々木系図で四郎と明記されている六角義実である可能性が高い。
 同じ『厳助往年記』天文八年(一五三九)十月条に、定頼の子息義賢が上洛する記事があるが、そこで「六角上洛。子息―上洛。今度左京大夫云々」と記されている。上洛した義賢は、従五位下左京大夫に叙任された。このとき義賢は十九歳であった。この記事で厳助は義賢の仮名を記していない。知らなかったのだろう。厳助にとっての六角四郎は、前述の『御台様むかへニ御祝目六』に登場した四郎殿であり、義賢ではなかったことが分かる。やはり浅井退治の隆頼であり、系図上の義実である。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文

恋愛哲学

足利義晴祝言と四郎殿父子 佐々木哲学校/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる