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zoom RSS 長命寺結解と四郎殿様

<<   作成日時 : 2006/02/24 21:40   >>

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 六角四郎と義賢を明確に区別している例は、六角氏の本国近江国内の資料にもある。それが『長命寺結解』(9)である。長命寺は、六角氏の祖佐々木秀義の菩提寺である。秀義(源三)は鎌倉幕府草創期に源頼朝の挙兵を助けて近江守護(惣追捕使)の初代となり、以後佐々木氏が近江守護を保持し続けた。六角氏はその佐々木氏の嫡流である。当然、長命寺と六角氏の結び付きは強い。そのため長命寺文書で六角四郎と義賢が明確に区別されていることの意義は大きい。
 私がこの長命寺の出納記録である結解(けちげ)を発見したときは、『鹿苑日録』に江州宰相を発見した時に匹敵するほどうれしかった。江州宰相だけではやはり不安であった。『鹿苑日録』の記事だけでは通説をひっくり返すことは困難と思っていたからである。しかしこの『長命寺結解』で御屋形様・四郎殿様・御曹司様の三人が区別されていたことで、四郎殿様と江州宰相が一気に結び付いた。もちろんこの四郎殿様に注目できたのは、あらかじめ『御台様むかへニ御祝目六』で四郎殿父子の存在を知っていたからである。そうでなければ『近江蒲生郡志』の編著者と同様、見ていても見落としていただろう。はじめから存在しないという目で見ていたら、見つからない。これは認識論の問題でもある。実は有るのに、無いと思って見ていたら、無いようにしか見えない。
 『長命寺結解』の「天文三年十月結解米下用」に、「四郎殿様御在京之時」とある。この記事の四郎殿様が、『厳助往年記』同年十月条にある将軍義晴の入洛に供奉した六角四郎と同一人物である。これに対して同年の「注進天文三年十二月結解米下用」で「五月十五日御曹司様伊崎へ御参ノ時」とあるように、定頼の子息義賢は御曹司様と記され、四郎殿様と書き分けられている。
 翌年の「注進天文四年乙未七月結解米下用」にも、四郎殿様の記事がある。それに対して「注進天文四年五月結解米下用」「注進天文四年十二月結解米下用」「注進天文五年夏結解米下用」に、やはり御曹司様の記事がある。記主が四郎殿様と御曹司様(義賢)を書き分けていたことは、明らかである。
 「天文六年五月結解米下用」で、定頼娘と管領細川晴元の婚儀を「御屋形様御祝言」と記していることから、『長命寺結解』に頻出する御屋形様は定頼と分かる。これで御屋形様の嫡子を意味する御曹司様が、定頼の嫡子義賢であることは確実だ。四郎殿様は、『御台様むかへニ御祝目六』の四郎殿であり、さらに『厳助往年記』の六角四郎である。やはり四郎殿様は隆頼であり、系図上の義実である。
 このように定頼就任以前に近江守護にあった人物として、六角四郎が実在したことは確実である。氏綱は永正十五年(一五一八)七月九日に没した。翌十六年(一五一九)十二月二十八日に十代将軍足利義稙から御内書を受領した佐々木四郎は(10)、この六角四郎のことである。

【注】
(9)『長命寺結解』は、滋賀県長命寺文書(東京大学史料編纂所影写本)に含まれている。『近江蒲生郡志』(七巻、一九九−二三七頁)にも翻刻が掲載されているが、誤りが多い。
(10)御内書案(『続群書類従』二十三輯下)。『近江蒲生郡志』五五八号(二巻、五一〇頁)に掲載。

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