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zoom RSS 義久という人物

<<   作成日時 : 2006/02/23 23:49   >>

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 『鹿苑日録』に義久という人物が登場する。彼は鹿苑院主梅叔法霖と交流があり、十代将軍足利義稙十七回忌の主催者になるなど幕府内の有力者でもあった。しかし辻善之助編『鹿苑日録総索引』(12)でも氏姓が記されず、これまで注目されてこなかった。
 義久の記事は、『鹿苑日録』に三カ所ある。まず天文六年(一五三七)六月十五日条に、義久が法霖に書を送った記事である。その前日の六月十四日条に、近江国内の鹿苑院領四ケ郷の差出検地についての記事がある。

  安楽寺来、−会跡之事指出申付也、松崎郷等事も上意江可申上
  之儀肝要云々、今日四ケ郷為指出、九里源兵衛、井口清左衛門
  出ル也、松崎事可入魂、

 六角氏被官の九里源兵衛と井口清左衛門が差出検地に尽力している。そして六月十五日条に、義久書状の記事がある。

  興禅有斎、天龍和尚・浄光・松雲・九里源兵・光岳・安楽寺在座、
  九里源兵仁大梅敷地事申合也、義久有状、玉帷子・百銭・雑紙
  一束京上之云々、未来也、興禅軒来、礼謝云々、

 興禅軒で斎と呼ばれる朝食会があって、法霖は天龍和尚や九里源兵衛尉らと同座した。法霖は九里源兵衛尉と大梅敷地のことについて申し合わせをしている。その記事に続いて義久書状の記事がある。この義久書状は九里源兵衛によって手渡されたのだろうか。義久が法霖に玉帷子・百銭・雑紙一束を送付したという。しかも京上とあることから、義久は在国していた。しかし、このときはまだ法霖の許に贈物は到着していなかったようだ。つぎに義久が六角氏であることを確認しておこう。
 六角氏被官には、実は義久の一字書出を給付されたと考えられる者がいる。今のところ確認できる者は、進藤新介久治(13)と深尾次郎右衛門尉久吉(14)、山中橘左衛門尉久俊(15)である。このうち進藤氏は後藤氏とともに六角の両牙とされた重臣であり、しかも久治の仮名「新介」は進藤氏嫡子のものである。深尾氏は本佐々木氏(古代豪族佐々貴山公の子孫で、紀氏を称する佐々貴氏)の流れで、近世には沙沙貴神社神職を勤めた家柄である。また山中氏は甲賀武士の最有力者であり、六角義賢・義治父子が織田信長に敗れて甲賀に没落した後も六角氏を支持し続けている。さらに、朝廷御倉職立入宗継の舅磯谷新右衛門尉久次を挙げることもできよう。このように、六角氏関係者に〈久〉の字を使用する者は多い。
 さらに、天文年間六角氏の旗下にあった北近江の戦国大名浅井久政(左兵衛尉、下野守)が、その名乗りに〈久〉の字を用いていることも注目できる。松永久秀が近江出身だったという伝説もあるが、それが事実ならば、久秀の名乗りも義久の一字書出を給付されたものと考えられる。
 義久は在国しており、しかも六角氏の有力被官の一字書出に久の字が見られる。さらに『鹿苑日録』天文六年(一五三七)六月十五日条にある義久書状は、興禅軒の斎で九里源兵衛尉によって法霖に手渡されている。
 同記天文六年九月二十一日条には「義久返事遣之、光岳来」という記事があり、法霖が義久に返事を送ったことが確認できる。義久と法霖の交流の様子が分かろう。また光岳が登場しているが、彼は法霖の弟子であり、法霖と六角氏の交流の中でよく使者となっている。義久という人物にますます注目できる。

【注】
(12)辻善之助編『鹿苑日録索引』続群書類従完成会、一九六二年、一九九二年。
(13)(天文八年カ)十二月十五日付□首座宛進藤新介書状(真珠庵文書)。『福井県史』資料編2中世、京都府真珠庵文書八〇号。
(14)『長命寺本堂鰐口銘文』(『近江蒲生郡志』七巻、一四四頁)。
(15)天文七年九月十七日付美濃部六郎右衛門尉宛山中久俊起証文案(神宮文庫所蔵『山中文書』二〇七号)。滋賀県山中文書(東京大学史料編纂所影写本)。『甲賀郡志』三一七頁。『水口町志』下巻にも所収。

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