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zoom RSS 義久と恵林院殿十七回忌

<<   作成日時 : 2006/02/23 23:48   >>

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 『鹿苑日録』天文八年(一五三九)二月二十九日条に、六角定頼(霜台)が鹿苑院主の法霖に書状を遣わした記事があり、さらに続けて法霖が恵林院殿(十代将軍足利義稙)十七回忌料について大館晴光(左衛門佐)に問い合わせた記事がある。六角定頼の記事と足利義稙十七回忌料の記事は関連しているように読むことができるが、この記事だけでは即断できない。やはり前後の記事を丹念に読み込んでいく必要がある。
 まず三月九日条に、五千疋を寄進するとの大館晴光の返事が記載されている。

  来四月九日、恵林院殿御十七年忌料事、蒙仰候趣、致披露候、
  然間、以公帖五千疋分可被寄之候条、先為彼院可有馳走之旨、
  可被仰調之由、被仰出候、於面向以奉行被仰出候、可得御意
  候、恐惶謹言、
    三月八日   晴光在判
      鹿苑院
         参侍者御中

 公帖を以て五千疋分を寄せるとあるが、その主体は誰だろうか。「公帖を以て」と書かれており、しかも足利義晴の内談衆大館晴光が主体を記さずに敬語を用いていることを考えれば、将軍足利義晴と読むのが自然である。しかし、まもなく義久と分かる。
 同月十六日条に義久の使者五郎次郎大夫が京都に上るとともに、細川高久(伊豆守)・飯尾堯連(大和守)らが鹿苑院主法霖を訪れて、仏事料五千疋を寄せたという記事がある。この記事によって、公帖をもって五千疋分を寄せた人物が義久であることが確認できた。
 このように義久は幕府の文書である公帖を発給できる立場にあったが、他の資料によっても将軍本人以外に公帖を発給していた人物がいたことが確認できる。当時は将軍の私信である御内書が公的文書となっていたが、『親俊日記』天文十一年(一五四二)九月四日条に「御内書父子へ御剱二振」という記事がある。御内書父子は将軍義晴から剱二振を給付されている。将軍義晴父子とは明らかに別人である。御内書を称号としていた人物が将軍本人でないとすれば、それは公帖を発給できる立場にあった義久のほかはない。
 仏事料五千疋というのも多額である。天文九年(一五四〇)六月、大国である越前の守護朝倉孝景が、普広院殿(六代将軍足利義教)百年忌で寄せたのが三千疋である(16)。これと比較しても、義久の財力の程が分かる。やはり義久は大国守護である。
 また四月四日条には「五郎次郎恵林へ御焼香御成、三番走有之、御供大館左衛門佐・典厩・伊勢守殿・同朋祐阿弥」と、義久の使者五郎次郎が焼香した記事がある。
 この記事では、五郎次郎が焼香のため恵林院に赴いたことを、鹿苑院主法霖は「御焼香御成」と記している。禅院の管轄や人事管掌を勤める僧録の鹿苑院主が、義久の使者五郎次郎を「御成」の主体として記していることは、義久の幕府内での地位が将軍に准じることを示している。地方であれば地元の戦国大名が御成の主体になることもあるが、鹿苑院主にとって「御成」の主体は将軍である。義久が将軍に准じる地位にあったことは明らかだ。彼が御内書と称される人物であったことは間違いあるまい。
 また義久の使者五郎次郎の御供をしている内談衆大館晴光(左衛門佐)・細川典厩家細川晴賢(右馬頭)・政所執事伊勢貞孝(伊勢守)ら三人は、将軍足利義晴の有力側近であり、同日の将軍義晴(公府)の鹿苑院御成でも御供衆として伺候している。五郎次郎は、将軍御供衆に伴われて、焼香のため恵林院に御成になった。義久と使者五郎次郎の格式の高さが分かる。義久が将軍に準じる地位にあったのは確かだ。五郎次郎は義久の連枝であろう。しかも三月十六日条で「五郎次郎大夫」と記されているように、五郎次郎はすでに五位に叙爵されていた。五郎次郎自身の格式も高かったことが確認できる。
 これら一連の記事で、公帖をもって仏事料五千疋を寄せると約束した人物が、義久であったことが確認できた。しかも大館晴光書状では、主語が省略された敬語の文で記され、受け取った法霖の側でもそれで人物が特定できた。さらに義久は御成の主体となり、将軍御供衆が御供をする地位にあった。これらのことから、義久の地位の高さが十分に理解できる。しかし当時義久は京都にはなく、すでに五位に叙爵されていた五郎次郎が名代として上洛し、恵林院での焼香をすませた。
 ところで『鹿苑日録』の同年五月十九日条および二十日条には、宰相が上洛・下向したという記事がある。この宰相の記事ついては表紙に頭書があり、そこで彼は相公と記されている。前述のように『鹿苑日録』で相公といえば普通は将軍を指すことから、この宰相が将軍に准じる地位にあったことが確認できる。この宰相の記事は、同書の天文五年(一五三六)五月十四日条にもあり、そこでは「江州宰相」と記されている。宰相が近江に在国していたことが確認できる。
 義久も御成の主体になっていたように将軍に準ずる地位にあり、足利義稙法事のときに在京せず、五郎次郎を名代としていた。しかも近江守護六角氏の有力被官に一字書出で久の字を用いる者がいた。近江に在国していた江州宰相と、近江の実力者義久は同一人物だろう。義久は六角四郎であり/江州宰相である。

【注】
(16)(天文九年)六月二十四日付朝倉孝景宛大館晴光書状案(内閣文庫)。『福井県史』資料編2中世、東京都内閣文庫所蔵文書『越前へ書札案文』二一号。

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