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zoom RSS 佐々木氏の嫡庶争い

<<   作成日時 : 2006/02/07 23:31   >>

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 旗本佐々木高重が自らを佐々木氏嫡流とする系図を幕府に提出したことを、実は同じく六角義賢(承禎)の子孫であった佐々木定賢が、『佐々木氏系譜序例』(11)で批判している。同書によれば、義賢には長男義治と次男高定があった。さらに高定には二人の男子があって、長男が高賢で、次男が幕府旗本となった高和である。このうち高賢は伯父義治の娘を娶り、その長男定治が外祖父義治の養子になって大坂城主豊臣秀頼に仕えた。定治は大坂落城後に会津藩主蒲生家に寄食し、蒲生家改易後には加賀金沢藩主前田家に仕えていた。その定治の嫡子が定之で、嫡孫が定賢である。つまり定賢は義賢の嫡子義治の正統であり、佐々木氏嫡流だというのである。たしかに義賢の後継者は義治であり、義治から高定に家督が移された痕跡は一次資料を見るかぎり存在しない。そうであるならば、義治の後継者こそ佐々木氏嫡流ということになる。定賢の主張は正しい。
 ただし定賢が正しいのは、義賢が佐々木氏嫡流ならばという限定付きである。沢田源内が主張したように義実が嫡流ならば、定賢の主張も誤りとなる。そのため定賢も『佐々木氏偽宗弁』では沢田源内を偽系図作者として批判した。『大系図評判遮中抄』は同書を参考にしている。もちろん定賢も後世の人物であり、源内と同時代人ではない。ここに限界がある。私は源内と同時代のメモである『京極氏家臣某覚書抜萃』の内容を信じる。少なくとも、これが実証歴史学の原則であろう。そしてそこから出発して、義実の実名が義久であったことを、『鹿苑日録』で確認した。
 まさに氏郷が相国寺住持愚渓禅師に指摘したように、権威があるから正しいという見方は捨てなければならない。そのことで歴史研究の第一歩を踏み出すことができる。

【注】
(11)『系図綜覧』上巻(名著刊行会、一九七四年)に所収。

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