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zoom RSS 足利将軍の猶子

<<   作成日時 : 2006/02/23 23:47   >>

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 義久が足利義稙十七回忌の法事の主催者であり、しかも僧録鹿苑院主にとって「御成」の主体になることは、義久が足利氏の連枝と目されていたことを示していよう。たしかに沙々貴神社本では、義久に当たる人物「義実」が十一代将軍足利義澄の猶子であったと記されている。
 義澄は、周防・長門・筑前守護大内義興に擁立された前将軍義稙(西国御所・西国大樹)の巻き返しによって、永正五年(一五〇八)に近江に出奔した。こうして義稙は前例のない将軍再任を果たした。江州公方義澄は近江守護六角氏に保護されたが、義稙派による包囲網に六角氏も抗しきれなかった。永正八年(一五一一)六角氏綱(佐々木四郎)は現将軍義稙の御内書を受け入れて、前将軍義澄派から離反していった。同年八月十四日、義澄は孤立したなか近江岡山城で没した。同月十六日に江州公方義澄派の細川澄元軍の反撃があって、将軍義稙・細川高国・大内義興らは丹波国に逃亡した。しかし二十四日義稙派が再び入京して舟岡山合戦があり、義澄派は敗れた。このとき六角氏被官でも山中遠江守父子が、義澄派の細川澄元軍に参加した(17)。山中氏は牢人衆として参加した可能性があり、六角氏内部が義澄派と義稙派の間で揺れ動いていたことが分かる。
 沙々貴神社本によれば、氏綱の嫡子義久(系図では義実)の生年は永正七年(一五一〇)である。義久は、1.近江御所義澄が在国中に生まれたこと、2.義澄が有していた足利氏伝来の小袖の鎧を所有していたことなどから、義澄の猶子という系譜伝承が生まれたと考えられる。しかし義久が義稙法事を主催したことを考えれば、義稙猶子とも考えられる。生後間もなく前将軍(義澄)猶子となったのではなく、六角氏が義稙派に転じたのちに現将軍(義稙)猶子になったのだろう。
 義稙は将軍に復職したが、実子がなかった。そのため、敵人義澄の長男義維(義賢・義冬)を養子とした。義維の母は武衛の娘であるが、この武衛の娘は、『御内書案』で右兵衛入道と呼ばれた六角高頼の娘と考えられる。そして義稙は、高頼の孫義久も猶子としたのである。このようにして六角氏を懐柔したと考えられる。
 永正十八年(一五二一)三月に足利義稙が管領細川高国と対立して淡路に出奔したとき、義稙を支持していた河内・越中守護畠山尚慶(尚順・卜山)は、六角氏使者である九里伊賀守を通して、甲賀武士佐治氏に忠節をもとめている(18)。それは、六角氏と義稙の間に密接な関係があったためだろう。しかし義稙出奔を契機に、六角氏は前将軍義澄の遺児義晴を支持した。そして義澄が伝領していた足利氏伝来の小袖の鎧を、九里伊賀守が義晴に献上した。(19)
 このように六角氏が足利氏伝来の小袖の鎧を所持し続けたことは、義久が足利氏連枝であったことを裏づける。小袖の鎧を献上した九里伊賀守は、最後まで義澄を匿い続けた九里備前守(員秀)の滅亡後に九里氏家督を継承した人物で、当時六角氏使者を勤めていた。そのため九里伊賀守が、六角氏の意志と関係なく小袖の鎧を義晴に献上したとは考えにくい。義久が足利氏猶子という資格で小袖の鎧を所持し、それを義晴の十二代将軍就任に際して献上したのだろう。『鹿苑日録』に登場する義久の使者九里源兵衛も、九里伊賀守の一族と考えられる。
 大永七年(一五二七)義稙の養子阿波公方足利義維が、細川晴元(澄元の子)と阿波衆に擁立されて堺に着岸し、将軍の前段階である従五位下左馬頭に補任されると、六角氏はそれに対抗して将軍足利義晴と管領細川高国を近江に保護した。六角氏が足利氏伝来の小袖の鎧を義晴に献上したことは、六角氏が義晴を足利氏後継者と目したという政治的意味をもっていたと考えられる。
 享禄四年(一五三一)細川高国が敗死すると、六角氏は細川晴元と和睦して、定頼の娘と晴元との間に婚約が成立している。そして細川晴元の支持を失った足利義維は阿波に亡命し、天文三年(一五三四)将軍義晴が帰京した。天文六年(一五三七)五月には、六角定頼の娘と細川晴元が祝言を挙げている(20)。
 天文八年(一五三九)に義久が義稙十七回忌の主催者になったことは、義久が義稙の後継者と目されたことを意味している。しかもその義久は足利義晴を支持している。義稙の養子足利義維にとっては、義稙仏事は、将軍就任の可能性の芽を摘む致命的な出来事であった。
 このように見てくると、義久が江州宰相(相公)という高い官職を得ていたことも理解できる。義久が近江守護職を叔父六角定頼に譲って前将軍義稙猶子/足利氏連枝として行動したことで、義晴政権は前将軍義稙の養子阿波公方義維を牽制することができた。
 こののち細川晴元と対立した阿波衆三好長慶(範長)も阿波公方を擁立することはなく、しばらく阿波公方義維(義冬)・義親(義栄)父子の動きは見られない。つぎに阿波公方の活動が見られるようになるには、永禄八年(一五六五)五月三日に松永久秀が十三代将軍足利義輝(義晴の子息)を殺害したのちの三好氏内部の権力抗争の中で、阿波公方足利義親(義栄)が十四代将軍として擁立されるまで待たなければならない。義稙十七回忌の法事には、阿波公方父子の牽制という政治的意味があったと考えられる。

【注】
(17)『後法成寺尚通公記』永正八年八月十六日条・二十三日条。
(18)(永正十八年)五月三日付佐治某宛畠山尚慶書状(小佐治文書)。滋賀県小佐治文書(東京大学史料編纂所影写本)。
(19)大永四年六月八日付九里伊賀守宛足利義晴御内書および伊勢貞忠書状(『室町幕府御内書引付』)。『近江蒲生郡志』三三四七−八号(九巻、四六〇頁)。
(20)『長命寺結解』『厳助往年記』。

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