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zoom RSS 義久の出家

<<   作成日時 : 2006/02/23 23:46   >>

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 実は足利義稙法事の記事で、義久は「義久入道」と記されている。しかし沙々貴神社本によれば、義久(系図では義実)は永正七年(一五一〇)の生まれである。義久の父氏綱は永正十五年(一五一八)に享年二十七歳で没している。父死去の時点で義久は九歳である。『御台様むかへニ御祝目六』で「四郎殿父子」、『厳助往年記』で「六角四郎」、そして『長命寺結解』でも「四郎殿様」として登場した天文三年(一五三四)に、義久は二十五歳である。また江州宰相として登場する天文五年(一五三六)に、義久は二十七歳である。そして義久入道として登場する天文八年(一五三九)でも、まだ三十歳である。出家するには若すぎよう。
 義久の子息亀寿の元服は、『お湯殿の上の日記』によれば天文十四年(一五四五)十二月五日であり、子息に家督を譲るために出家したわけではない。実際に天文六年(一五三七)に近江守護職に就任したのは、義久の子息亀寿ではなく叔父定頼であった。
 義久が若く出家したのは、まず義稙猶子であり/義稙法事の主催者である彼が、義晴に対して野心のないことを示すためと考えられる。そしてもう一つの理由は、彼が病気がちだったためと考えられる。『鹿苑日録』天文十八年二月二日条に、義久一周忌の記事がある。天文十七年(一五四八)に没したのであれば、享年は三十九歳である。そうであれば、天文八年(一五三九)四月足利義稙十七回忌の法事に出席することができなかったのも、病気のためだろう。翌五月に上洛したのは、病気が平癒したためと考えられるが、またすぐに下向している(21)。定頼が天文六年(一五三七)に近江守護職に補任されたのは、前年に江州相公になっていた義久が、守護の兼務を停めて相公の職務に専念するためと考えられる。

【注】
(21)『鹿苑日録』天文八年五月十九日条、同月二十日条。

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