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zoom RSS 義久入道と宗能

<<   作成日時 : 2006/02/23 22:18   >>

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 義久が天文六年(一五三七)以降に「宗能」と名乗っていたことは、『続群書類従』所収の三上系図に付けられている三上文書によって知ることができる。義久が「義久入道」と呼ばれる時期と重なる。この文書の原本は確認できないが、もし明らかな偽文書ならば一般に流布している「義実」と記したと考えられる。わざわざ「宗能」とはしないだろう。この文書は信用できる。
 同文書には六角宗能安堵状写一通、六角宗能一字書出状写一通、秀書状写一通がある。まず天文六年(一五三七)正月十六日付六角宗能安堵状写は、三上三郎次郎宛に三上美作守の跡の相続を認めた直状形式のものである。六角氏被官三上氏に対して安堵状を発給していることから、宗能が六角氏であることは明らかだ。『鹿苑日録』天文八年(一五三九)三月十八日条に「義久入道」とあるが、その義久の出家後の法名が「宗能」であろう。六角氏直状の存在は、六角氏当主の直状はないとする従来の見解を否定する。

  美作守一跡之事、如此旨之、諸職不相替申付者也、仍下知
  如件、
   天文六年
    正月十六日  宗能花押
     三上三郎次郎殿

 直状は大名本人が発給した命令書であり、直状の存在は大名権力の強さを示していると考えられている。それに対して奉行人が大名の意志を奉った命令書である奉書では、大名の命令が直接伝えられない。定頼以降六角氏当主の直状が見られないことから、六角氏の在地権力は有力家臣団による連合政権であり、六角氏当主の権力基盤が脆弱であったと見られがちである。しかし直状がないと見られていたのは、直状を発給する立場にあった義久(宗能)の存在を否定し続けてきたからにほかならない。無いのではなく、無視してきたのである。そのため宗能直状写の発見は、六角氏在地権力のあり方を考察する上で大きな意味をもつ。しかも義久の父氏綱(近江守)も直状を発給していた(22)。氏綱−義久の系統が直状を発給したのに対して、定頼−義賢−義治の系統は直状を発給しなかったという作業仮説を立てることができる。六角氏の権力機構を考察するにあたっては、そのような目をもつことが必要であろう。
 また宗能は、六角家中における着座のことについても裁決している。私信である書状形式であるため年未詳だが、宗能が近江在国政権でも実権を有していたことを確認できる。

  同名七郎与着座之儀、名字中任異見、老次第ニ末代可被申合
  之旨同心之由、尤可然候、猶向後別而無等閑被相談候者、
  忝存候、恐々謹言、
    十二月晦日  宗能判
     三上道祖菊丸殿

 この事案では三上氏内部では、長幼の順で着座の順が決まっていたことが分かる。宗能はこの慣習を支持したようだ。
 また同文書には六角宗能による一字書出状写があり、三上八郎次郎が「能」の字を給付されて「能忠」と名乗っている。

      能忠
   宗能花押
    三上八郎次郎殿

 この三上八郎次郎宛の一字書出状写の年代は判明しないが、やはり義久出家後であろう。三上能忠は、のちに出家して栖雲軒士忠と名乗った人物と同一人物と考えられる。彼は六角氏の有力被官であり、永禄十年(一五六七)に定められた六角氏式目の連署人となった人物である。
 同じく六角氏被官で六角氏式目連署人である馬淵宗綱(山城入道)は、宗能の「宗」の字を一字書出として給付されたと考えられる。沙々貴神社本で「義実」の法号を「東禅寺殿仁山崇義大居士」とするが、「崇義」と「宗能」は訓読みが同じであり、誤記・誤写の範囲内にある。同一人物と考えるに十分である。滋賀県山中文書でも、南北朝期の六角氏頼の法名「崇永」が「宗水」と誤写されている例が見られる。系図や物語で「義実」とされる人物が義久(宗能)であったことは間違いない。
 前述のように『親俊日記』天文十一年(一五四二)九月四日条に、「御内書父子へ御剱二振」と将軍発給文書を別称とする人物が幕府に出仕した記事がある。その三日後の『お湯殿の上の日記』同年九月七日条に、「かめこきく。かき一ふたしん上申」と六角亀寿が天皇家女房衆に菊と柿を進上した記事がある。このことで御内書父子が六角義久・亀寿父子であり、当時在京していたことが分かる。また足利義稙十七回忌で公帖を発給した人物が、将軍発給文書「御内書」を別称とする義久であることも確認できる。出家後の天文十一年(一五四二)にも、将軍の別称相公や将軍発給文書である御内書で呼ばれるに相応しい地位に、義久が在職していたことが確認できる。

【注】
(22)永正十三年九月二十六日付永源寺侍衣禅師宛六角氏綱(近江守)直状(永源寺文書)。滋賀県永源寺文書(東京大学史料編纂所影写本)。『近江蒲生郡志』五五二号(二巻、四九八−九頁)。

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