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zoom RSS 六角定頼の近江守護補任

<<   作成日時 : 2006/02/23 21:55   >>

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 叔父定頼の近江守護職補任は、義久が出家したと考えられる天文六年(一五三七)である。しかも、定頼は近江守護のまま幕政にも大きく関与した。江州宰相を補佐するための近江守護職と考えられる。
 ところで六角定頼は五位で弾正少弼に任官していたが、弾正少弼は京都を巡察して非違を糾す弾正台の次官で、公家を弾劾することもできた。そのため長官の尹には親王が補任され、次官のうち上級次官の大弼は参議が兼任、下級次官の少弼には四位・五位の殿上人が補任された。三等官の忠には実務官僚である侍身分の者がなった。律令制度ではそれほどの重職であった。
 しかも定頼は弾正少弼の官職を帯びて、幕政にも大きく関与した。定頼にとって弾正少弼は、名誉職的な王朝官職ではなく、実利的なものであった。さらに定頼は、天文十五年(一五四六)の十三代将軍義輝(当時は義藤)の元服式で、四位に叙位された上で管領代に任じて加冠役を務めた。定頼は弾正台の唐名が霜台であったことから六角霜台と呼ばれたが、その定頼が幕政を支えたことで、霜台は幕府で実権を握る者が補任される官職となった観がある。例えば、松永久秀が弾正忠(三等官)・弾正少弼(次官)に任官し、織田信長も足利義昭政権下では顕官への任官を拒否して弾正忠であり続けた。
 弾正台は、令外官の検非違使庁が設置されてからは有名無実の職となっていた。さらに室町幕府が京都に開かれて侍所が京都の治安維持に勤めると、その検非違使も有名無実となった。しかし幕府の無力化が進むと、実力者が王朝官職である弾正台の次官・三等官に補任されるようになった。幕府と朝廷に睨みを利かせようとする者にとって、弾正台の職はうってつけの役職だったといえる。京都を支配する者にとって、霜台はきわめて実利的な官職であった。
 こののち永禄十一年(一五六八)九月信長は上洛のときに、定頼の子息義賢(当時は出家して承禎)と会談して「天下所司代申付けらるべし」(23)と提案している。当時すでに侍所所司(頭人)に任ずべき四職(山名・赤松・一色・京極)に実力はなく、替わって義賢を所司代に任ずるというのである。この信長の提案は、定頼の弾正少弼の地位を十分に理解してのことだろう。しかも義賢の王朝官職は左京大夫であり、京都行政を勤める京職の長官であった。信長の提案は、ときの弾正少弼松永久秀に替わって前左京大夫義賢に京都行政を任せるということである。京都支配者にとって、弾正少弼や左京大夫という王朝官職が実利的なものであった。
 しかし義賢はこの提案を一蹴して信長と対決し、近江を追われた。そして信長自身が弾正忠として京都支配を進めた。王朝官職の虚飾化が進められて地方大名に官位の乱発が行なわれた一方で、このように王朝官職にもとづいて京都支配を進める動きもあった。

【注】
(23)『信長公記』巻一、永禄十一年八月七日条。

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