義久一周忌

 江州宰相の没年について系譜伝承に混乱があり、特定できない。沙々貴神社所蔵佐々木系図では没年月日を天文十五年(一五四六)九月十四日とし、法号を東禅寺殿仁山崇義大居士とするが、『江源武鑑』では没年月日を弘治三年(一五五七)十一月二十二日とし、法号を東光院殿贈権中納言三品崇山大居士とする。系譜伝承によって生没年に多少の異同があるものの、おおまかにこの二つの時期に絞られる。これは二人の人物の没年を混同しているものと考えられるが、どちらにも決定打がない。
 ところが、『鹿苑日録』天文十八年(一五四九)二月二日条に「玉子為義久一周忌営斎、招湖月・江春・彦材・等昌・能韶・寿鑑也」と、義久一周忌の記事がある。このとき法事を営んだ法玉(字智岳)は近江出身者である。法玉の父は六角氏被官の饗庭対馬守入道であり、北近江で自立した浅井亮政を牽制するため近江国梅津に在陣していた(24)。
 法玉自身は名門尼寺の宝鏡寺尼長老の猶子になっており(25)、天文十八年(一五四九)三月八日に前将軍足利義晴の娘(理源)が宝鏡寺に入室したときには、法玉が相伴している(26)。法玉は六角氏とも足利義晴とも深く関係していた人物であった。
 このような法玉が一周忌の法事を営んだ義久は、江州宰相義久と同一人物とも考えられる。この記事が江州宰相の法事の記事であれば、沙沙貴神社所蔵佐々木系図で伝える没年が近いことになる。しかし将軍連枝の法事の記事としては、あまりに簡潔である。六角氏が京都から退転している時期だからかもしれないが、記事が簡素であることが気になる。義久の葬礼に関する資料を発掘することも、今後の課題となろう。

【注】
(24)『鹿苑日録』天文五年五月二十六日条ほか。
(25)『鹿苑日録』天文五年六月十八日条。
(26)『鹿苑日録』天文十八年三月八日条。

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