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zoom RSS 江州宰相の贈官

<<   作成日時 : 2006/02/23 21:38   >>

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 『お湯殿の上の日記』永禄二年(一五五九)五月二十四日条に「ふけよりとて。□うくわん事にりんしのさいそく申さるゝ。てん文九年の御ゆとのゝ日記にも。せんくわう御心しるしのにもなきよしおほせらるゝ。御かへり事かさねとあり」と足利義輝が贈官の催促をしているという記事があるが、前将軍義晴の左大臣贈官は薨去直後の天文十九年(一五五〇)五月四日にすでに行なわれており、義晴の贈官のことではない。江州宰相の贈官の記事だろう。
 このことによって、永禄二年(一五五九)までに江州宰相が薨じていたことが分かる。『鹿苑日録』天文十八年(一五四九)二月二日条の義久一周忌の記事は、やはり江州宰相の一周忌の記事だろうか。永禄元年(一五五八)に六角氏と三好長慶が和睦して将軍義輝が帰京を果たしており、その翌年に六角氏が名誉回復したと考えられる。『公卿補任』に義実(義久)任官の記事がなかったことが、これまで義実の実在が否定されてきた理由の一つとなってきた。しかしこの記事によって『公卿補任』や記録類に義久(系図では義実)任官の記事がない理由が分かる。この記事が発見できたことの価値は高い。ただし天文五年(一五三六)にはすでに参議(江州宰相)になっているため、天文九年(一五四〇)の補任は参議より上位の官職でなければならない。沙々貴神社本や『江源武鑑』には義実への従二位権中納言の贈官が記されており、この義久への贈官は権中納言の贈官と考えられる。
 諸侯が公卿に補任されるというのは大内義隆の例もあるが、やはり当時では希代のことであった。しかも大内義隆は位階こそ従二位で公卿に列していたが、補任された官職は兵部卿であり、議政官ではない。将軍ではない義久が、議政官である参議に補任されたことは特記に値する。(慶長七年)二月二十日付近衛信尹宛近衛前久書状(27)に「近代ハ雖無由緒候、以権門悉公家ニ成申候。其比ハ一切無先例事ハ不成候、飛騨三木、是も先例無之間ハ、無勅許候。広橋内府ニ旧例被択出候て勅許候」とある。永禄五年(一五六二)に飛騨三木良頼(嗣頼)は飛騨守から従三位参議に直任された。その先例とされたのは江州宰相であろう。室町幕府と関係が深かった広橋兼秀が旧例を捜し出したという事実もこのことを物語っている。

【注】
(27)将軍家准摂家徳川家系図事東求院殿御書(陽明文庫)。

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