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zoom RSS 『江源武鑑』の錯誤

<<   作成日時 : 2006/02/23 21:35   >>

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 『江源武鑑』では、義久に当たる人物を一貫して「義実」と記述している。しかし義実の実名が義久と分かった後で同書を読むと、永禄十年(一五六七)十一月九日条に「義久」という実名が登場していることに気づく。これは、義賢(承禎)の次男中務大輔が「義久」と改名したが、屋形義秀の勘気を受けて「賢永」と改名したという記事である。

  箕作ノ二男中務大夫義久ト実名ヲ改メツク、此ノ事屋形聞テ大キニ
  怒テ曰、当家義ノ字ヲツク事、将軍家ノ諱字ナリ、何ソ御免ナクシ
  テ乱リニツカンコト、甚家門ノ無礼ナリ、改替スヘキノヨシ、目賀田
  摂津守ヲ以テ父承禎ヘ被仰遣、承禎其ノ事ヲ不知ノヨシヲ被申、
  依之中務大夫改カヘテ賢永ト号ス、是ハ舎兄右衛門督ノ所行也
  ト云、

 六角氏が実名に「義」の字を用いるのは、この記事にある通り足利将軍家から諱字を給付された場合に限られていた。永禄十年(一五六七)当時、足利義昭(義秋)が三好・松永氏の兵乱を避けて奈良興福寺一乗院を無事に脱出して、近江六角氏に保護されていた時期である。しかし義賢(承禎)・義治(右衛門尉)父子は三好・松永氏と結び、足利義昭の矢島御所の襲撃を企てていた。六角氏内部で義昭派と反義昭派が対立していた時期である。このようなときに反義昭派の義賢の次男が、足利義昭の許可もなく「義」の字を用いたとすれば、確かに僣越である。
 この『江源武鑑』の記事が真実かどうか、今のところ判断できない。『近江蒲生郡志』では、義賢の次男中務大輔の実名を「義定」とするが、資料で確認できる彼の実名は高定や高盛である(29)。『断家譜』など系図類に「義定」と記すものがあるだけで、彼が「義定」と名乗った確証はない。このことでも、『近江蒲生郡志』が実は実証に徹していなかったことが分かる。
 しかし、この記事によって六角氏に「義久」と名乗った人物がいたという伝承が当時あったことが確認できる。義久の実名を「義実」としてしまった『江源武鑑』編者は、それが義実の実名であると気づかなかったのだろう。そこで実名に関する伝承が混乱している義賢の次男高盛(中務大輔)のことであると考えてしまい、この記事を作ったものと考えられる。

【注】
(29)三重県龍大夫文書(東京大学史料編纂所影写本)。『三重県史』資料編中世1(下)。

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