佐々木哲学校

アクセスカウンタ

zoom RSS 六角義秀の研究・序

<<   作成日時 : 2006/02/22 22:46   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 『お湯殿の上の日記』の天文年間の記事には、「かめ」「かめこ」「かめしゆ」「かめちよ」と六角氏嫡子の幼名亀寿や亀千代が頻出する。とくに天文十四年(一五四五)十二月五日条に「かめしゆけんふくにて。すけ殿より二色二かまいる」とあり、亀寿の元服で、典侍(ないしのすけ)が天皇家に御礼を進上している。また同書の天文二十一年(一五五二)十一月二十七日条では「かめちよかみおきとて、二色一かしん上申」とあり、亀千代が髪置の御礼に音物を進上した記事がある。 
 『お湯殿の上の日記』は宮廷記録のひとつで、天皇常住の常御殿の御湯殿上の間で、天皇近侍の女官が記した当番日記で、後土御門天皇の文明九年(一四七七)から霊元天皇の貞享四年(一六八七)までの記録である。その内容は天皇の動静を主とし、恒例・臨時の行事、任官・叙位・下賜・進献、および将軍以下の参内の様子などを記した。また女官の動静も記され、御湯の当番、移動・新任なども記した。ときには戯れに天皇自ら書くこともあった。室町時代以降の資料としてはもちろん、天皇家の資料としても第一級のものである。
 天皇の私生活の場である後宮の職員は、女性であった。その中で内侍司は天皇に常侍し、天皇への上奏を取り次ぎ/天皇の命を伝えるという奏請宣伝を行なった。その長官尚侍(ないしのかみ)は定員が二人で奏請宣伝を行なうとともに、平安時代には天皇の配偶者となることもあり、多くは摂関家の娘が補任された。しかし後世になると尚侍に補任される者はほとんどなく、室町・戦国時代には次官典侍(ないしのすけ)が天皇の配偶者候補となった。典侍の定員は四人で、大納言・中納言の娘が多く補任された。ただし実務は三等官掌侍(ないしのじょう)が執り行ない、とくに首席の勾当内侍(こうとうのないし)は奏請宣伝を勤め長橋殿と呼ばれた。
 『お湯殿の上の日記』を書き継いだ典侍たちは、戦国期には主に勧修寺流の万里小路家・勧修寺家や日野流の広橋家、さらに宇多源氏流の庭田家出身の女性たちが補任された。とくに室町・戦国時代の天皇の母たちは彼女ら典侍出身の女性たちであった。
 『お湯殿の上の日記』に亀寿や亀千代の記事が多いことは、彼らがそのような天皇家女房衆にとって身近な存在だったことを示している。しかも亀寿元服の御礼で、典侍(すけ殿)が音物を進上している。彼女が亀寿の母であることは確実だろう。
 亀寿の元服が天文十四年(一五四五)十二月であることから考えると、亀寿の生年は天文初年の頃と思われる。その頃に誕生した六角氏嫡子の存在は、天文三年(一五三四)の十二代将軍足利義晴の婚礼の様子を記録した『天文三年甲午六月八日江州於桑実御台様むかへニ御祝目六』(内閣文庫所蔵)で知ることができる。当時、将軍足利義晴は近江で逃亡生活を送っていたが、六角氏の仲介で前関白近衛尚通の娘と祝言を挙げることができた。婚礼の場所は、当時仮幕府が置かれていた六角氏の居城観音寺城内の桑実寺であった。同書には「六角殿ゑほしにて御参、御色直ニハ四郎殿父子御参、十合十荷御進上之、御一献参」とあり、婚礼に六角定頼(「六角殿」)が烏帽子姿で参上し、さらに御色直しには六角四郎(「四郎殿」)父子が参上したことが分かる。四郎父子は多くの贈物を足利義晴に進上しているが、この四郎は『鹿苑日録』に登場する江州宰相義久(系図上の義実)であり、その子息は亀寿(系図上の義秀)と考えられる。
 この年の六月に義晴は帰京を果たしており、『厳助往年記』天文三年(一五三四)六月二十九日条でも「大樹坂本御滞留。六角四郎并小原等供奉仕云々」とある。将軍義晴の帰洛で、六角四郎は大原高保とともに供奉している。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文

恋愛哲学

六角義秀の研究・序 佐々木哲学校/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる