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zoom RSS 『お湯殿の上の日記』と六角亀寿

<<   作成日時 : 2006/02/22 22:44   >>

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 六角氏が足利義晴の保護者として京都で活躍する天文年間に、『お湯殿の上の日記』に「かめ」「かめこ」「かめしゆ」の記事が頻出する。「亀寿」「亀千代」は六角氏嫡子の幼名として有名であり、応仁・文明の内乱期に六角高頼は『碧山日録』で「亀」「亀子」「亀寿子」などと呼ばれている(1)。『碧山日録』の記主太極は、近江北郡守護京極氏の一族である佐々木流鞍智氏の出身であり、当時の幕政に翻弄されて孤軍奮闘していた佐々木惣領家の六角亀寿に同情し、親しみを込めて「亀」「亀子」「亀寿子」と記した。そして『お湯殿の上の日記』にも「かめ」「かめこ」「かめしゆ」が登場する。彼も六角氏の嫡子と考えられる。
 初出は天文二年(一五三三)九月十三日条で、この年に六角氏と本願寺が和睦して京都情勢が安定し、翌年の足利義晴の帰京を可能とした。また最後の記事は天文十九年(一五五〇)六月二十六日条で、この年の五月四日に足利義晴が逃亡先の近江国穴太で没している。まさに六角氏の京都での活動時期と亀寿の記事の頻度が重なる。
 六角氏嫡子の幼名が亀寿であり、しかも六角氏と亀寿の京都での活動時期がちょうど重なることを考えれば、『お湯殿の上の日記』に登場する亀寿は六角氏の嫡子と考えられる。『御台様むかへニ御祝目六』に登場する(六角)四郎殿の子息が、この亀寿であろう。このことを裏付けるために、『お湯殿の上の日記』の記事を見てみよう。
 まず天文二年(一五三三)九月十三日条に「かめ御すゝりのふたしん上、この二事は十四日の事也」とある。亀が硯蓋を進上したという記事である。硯蓋は、硯箱の蓋のことだが、それを花・果物・肴などを載せるのに用いた。そのような工芸品を亀は進上していたのである。これが亀の初出の記事であり、以後、亀寿が天皇家に音物を進める記事が頻出する。
 同年九月十六日条に「かめ物まいりの御みやけしん上申」とある。硯蓋を進上した後、寺社詣をしたのだろう。これ以後も、亀は寺社詣をするたびに天皇家に土産を進上している。天文十二年(一五四三)正月二十一日条や天文十三年(一五四三)正月三日条に亀寿の鞍馬山参詣の記事があるように、とくに鞍馬詣が多かったようだ。洛北の鞍馬山の中腹にある鞍馬寺は、鑑真の高弟鑑禎が毘沙門天を安置したのが始まりで、京都の北方鎮護の寺である。また都人の福徳を祈る寺でもあり、正月初寅の参詣が多かった。『江源武鑑』ではこの亀寿に当たる人物義秀に愛宕詣の記事がよくあるが、それはこの鞍馬詣のことを隠喩していよう。
 鞍馬寺の本尊毘沙門天は北方の守護神であるため、京都からみて北国である越後上杉謙信も毘沙門天を信仰していた。六角氏は北陸道管領であったという系譜伝承があり(2)、実際六角氏は越後上杉・能登畠山・越前朝倉・若狭武田ら北陸諸大名と同盟関係にあった。北国の盟主である北陸道管領という系譜伝承は、亀寿の毘沙門天信仰/鞍馬詣とも関係があろう。
 この天文二年(一五三三)六月に細川晴元と一向一揆が和睦している。このことで六角氏が庇護していた足利義晴の帰京が現実味あるものになった。
 前年である享禄五年/天文元年(一五三二)六月に山城守護細川晴元と河内半国守護代木沢長政が、山城守護代三好元長と河内守護畠山義堯を一向一揆の力を借りて滅ぼした。木沢長政はもともと畠山義堯の被官であったが、細川晴元に鞍替えしていた。そのため旧主義堯は、木沢長政を憎んでいた。また細川氏内部でも晴元が新参者木沢長政を贔屓したため、阿波時代からの晴元の譜代であった三好元長が長政を排除しようとした。これが細川晴元・木沢長政と三好元長・畠山義堯の対立へと発展した。この内部分裂によって、将軍義晴の近江亡命政権のライバル堺公方足利義維−管領細川晴元−山城守護代三好元長・河内守護代木沢長政という堺武家は崩壊した。そして元長を贔屓していた足利義維は自刃を止められて阿波に逃亡し、その政治生命を絶たれた。
 この兵乱を契機に畿内の一向一揆は勢いづき、翌七月には奈良で一向一揆が蜂起した。法主証如も静止できない状態になっていた。そこで八月細川晴元は六角氏・法華一揆の援軍を得て、一向一揆の本拠山科本願寺を焼き打ちにした。これに対して一向一揆も反撃し、翌年天文二年(一五三三)二月に細川晴元は敗れて淡路に出奔した。ところが三月には木沢長政と法華一揆の連合軍が反撃して、一向一揆を破った。このように完全に膠着状態に陥り、六月に晴元と本願寺は和睦した。このとき三好元長の子息長慶(範長)が仲介という重要な役割を果たしている。長慶が歴史の表舞台に登場した。
 六角氏はこののち天文五年(一五三六)十二月に本願寺と同盟を結んでいる。この六角氏と本願寺の和睦は単なる名目的なものではなく、これ以後近江国内では実際に浄土真宗に帰依する者が多かった。さらに弘治三年(一五五七)には六角氏の養女が本願寺顕如に嫁ぎ、同盟関係を強固なものにしている(『厳助往年記』弘治三年四月十七日条)。そのため一向一揆の勢力の強かった地域の諸大名は、六角氏と同盟関係を積極的に築いている。
 こうして京都の政情は安定し、亀も安心して鞍馬山参詣をしたと考えられる。亀の初出の記事は六角氏の動向と連動している。
 天文三年(一五三四)三月二十六日条に「かめ御みやしん上申、ほりの事につきてふけへ文いつる」とあるが、亀が御土産を進上した記事は、武家に文書を出した記事と関連していると考えられる。当時、武家である足利義晴は六角氏の居城観音寺城内にある桑実寺を仮幕府としており、近江に在国していた。さらに同年五月二十一日条に「かめこ、御うり一ふたしん上」とあるように、亀子が近江名物の瓜を進上している。もちろんこの記事だけで亀子を近江人と決めつけることはできないが、実は近江より毎年瓜が進上されていたことが天文十年(一五四一)七月十一日条に見え、その翌年の天文十一年(一五四二)七月二十四日条では亀寿が近江瓜を進上した記事がある。これらの記事を総合すれば、亀子と亀寿は同一人物であり、毎年近江瓜を進上していた。しかも亀寿は、近江守護六角氏嫡子の幼名である。亀寿が六角氏であることはほぼ確実だ。やはり亀の御土産進上の記事は、近江仮幕府への文書発給の記事と関係があろう。
 同年六月八日には四郎殿父子が義晴の婚儀で、御色直に参加した。『御台様むかへニ御祝目六』に登場する「四郎殿父子」の子息の方が、この亀と考えられる。
 さらに同年九月三日、将軍義晴は近江坂本から入京している。このとき六角義久(四郎)が、叔父大原高保(小原)とともに義晴に供奉している(『厳助往年記』)。
天文四−五年(一五三五−六)のあいだ亀/亀子の記事が見られないが、『鹿苑日録』天文五年(一五三六)五月十四日条に江州宰相が登場し、以後将軍の別称である相公と称される近江在国の人物が登場する。義久である。このときまでに参議に補任されて、公卿に列したものと考えられる。その直後に京都の法華一揆と比叡山の対立が表面化した。
 六角氏は和平調停を試み、五月二十九日に九里源兵衛を上京させた(『鹿苑日録』)。しかし斡旋が不調に終わると、六角氏は山門側に着いている。そして七月に天文法華の乱が起きた。七月二十日六角氏は大原高保(中務大輔)を総大将に、後藤・三雲・蒲生・青地・進藤・永原ら六角氏有力被官が参陣し、二十九日には六角氏と山門の連合軍によって京都の法華一揆が壊滅した(『鹿苑日録』)。一向一揆を倒すために法華一揆を使った細川晴元は、今度は法華一揆が壊滅状態になったことを見計らったように、その年の九月に摂津芥川城を出て入京を果たした。

【注】
(1)『碧山日録』応仁二年四月一日条「亀寿」、四月二十六日条「亀寿子」、十一月十日条「亀子」、十一月十七日条「亀寿子」。
(2)沙々貴神社所蔵佐々木系図や『江源武鑑』、『寛政重修諸家譜』山岡(伴氏)系図の景之の項。

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