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zoom RSS 足利義晴政権と六角亀寿

<<   作成日時 : 2006/02/22 22:41   >>

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 幕府の正常化が進められると、それを契機に六角氏が京都政界に積極的に関与するようになった。天文六年(一五三七)には六角定頼が近江守護正員に就任している(3)。それとともに亀/亀子の記事も頻出するようになる。
 天文六年四月三十日条「かめ、御下くさしん上申」と、亀が下草を進上した記事がある。これ以後、日常的な物を進上するようになる。まず同年十月十一日条で「かめこ、みつかんしん上申」と亀子が蜜柑を進上し、同年十二月六日条でも「かめこ、まん一ふたしん上申」と亀子が饅頭を進上した記事がある。さらに同年十二月廿一日条で「かめこまん、中御たるしん上申」と、亀子が饅頭、中が樽酒を進上したいう記事がある。亀寿とともに音物を進上した中は、亀寿の近親者であろう。中は、元亀三年(一五七二)に比叡山を自領蒲生郡に再興した中左兵衛佐氏郷(4)と同一人物と考えられる。
 天文七年(一五三八)には亀/亀子の記事が見られなくなり、翌八年(一五三九)に再び亀/亀子が天皇家に音物を進上した記事が見られる。
 天文八年六月七日条「かめこ、まきしん上申」と亀子が真木を進上した記事があるが、この直後、閏六月に足利義晴の御台と若君が近江八瀬に移座した。細川晴元とその被官三好長慶の対立が表面化したのである。しかし、このときは小競り合いですんだ。同年十二月二十七日条には「かめ、あをのもし・かやしん上申」と、亀が青物と萱を進上したという記事が見られる。萱は近江の名産であり、やはり亀寿は近江人である。
 そういえば『鹿苑日録』天文八年五月十九日条・二十日条に、宰相上洛と下向の記事がある。この記事に関する頭書で、この宰相は相公とされている。前述の江州宰相(六角義久)と同一人物である。そして翌六月七日に亀子が真木を進上している。宰相と亀/亀子の動きは連動していよう。
 天文九年(一五四〇)十一月二十九日条「かめこ、はましん上申」とあり、この年はこの蛤進上の記事が見えるだけである。しかし同年九月八日条に「新大すけさもしの子まいる」とある。このさ文字の子というのは、佐々木六角氏の嫡子亀寿のことであろうか。これは今後確認する必要があるだろう。
 天文十年(一五四一)正月廿七日条に「かめ、ところしん上申」と、亀がところてんを進上した記事がある。また同年七月十一日条の「あふみより、としゝゝの御うりまいる」とある記事で、近江国から毎年瓜が進上されていることが分かる。ここでは亀寿とは記されていないが、翌十一年(一五四二)七月二十四日条に亀子が近江瓜を進上したという記事があり、さらに天文十三年(一五四四)六月二十日条に亀寿が近江瓜を進上した記事があるため、毎年近江瓜を進上していたのが亀寿であることが分かる。
 この天文十年(一五四一)十一月に山城・河内守護代木沢長政が京都に迫り、将軍足利義晴が近江に逃れている。長政は細川晴元政権のもとで権力を掌握して専横を極めていた。しかし翌十一年(一五四二)三月十七日長政が三好長慶のために敗死したことで、
再び幕府は正常化した。義晴は二十八日に帰京を果たし、さらに新築の今出川御所に入った。この義晴帰京後に亀寿の記事が再び見られるようになる。
 天文十一年(一五四二)七月五日条に「かめ、はなしん上申」とあり、亀が花を進上している。同年七月十三日条には「かめこ、てんかいしん上申」と、亀子が天蓋花(彼岸花)を進上した記事がある。さらに同年七月二十四日条に「かめこ、かうのうりしん上申」と、亀子が近江瓜を進上した記事がある。このように、七月に亀/亀子の記事が集中する。このうち七月二十四日条で亀子が近江瓜を進上していることは、前述のように注目に値する。前年の天文十年(一五四一)七月十一日条では近江より毎年近江瓜を進上していると記されており、この天文十一年(一五四二)七月二十四日条で亀子が近江瓜を進上している。このことで亀が近江関係者であることが確認できる。やはり六角氏嫡子という仮説を裏づけている。
 さらに同年九月七日条に「かめこ、きく・かき一ふたしん上申」と亀子が菊と柿を進上した記事がある。ところで『親俊日記』天文十一年(一五四二)九月四日条には、「御内書父子へ御剱二振」という記事がある。御内書父子が幕府に出仕して御剱二振を賜わった三日後、九月七日に亀子が内侍司に菊と柿を進上した。「御内書」と将軍発給文書で称された人物は、将軍の別称「相公」で呼ばれた江州宰相六角義久で間違いない。亀子が天皇家に進物をしたことと、義久父子が幕府に出仕したことは連動していよう。
 天文十二年(一五四三)正月二十一日条「かめしゆ、くらむまの御みや・御とひかきしん上申」とあり、亀寿が鞍馬山に参詣して御土産を進上した記事がある。これまでは亀/亀子と呼ばれていたが、この記事では亀寿と呼ばれている。この記事で、正しくは亀寿であったことが確認できた。同年七月二十日条にも「かめしゆ、御ふたしん上申」と、亀寿が硯箱の蓋を進上した記事がある。この記事でも亀寿と記されている。これ以後は亀寿と呼ばれることが多い。もちろんこの記事以後でも亀/亀子と記されているものがある。同年十月九日条では「かめこ、きくしん上申」と、亀子が菊を進上した記事がある。記主によって呼び方が異なっていたのだろう。
 天文十三年(一五四四)には亀寿の記事内容が豊富で、これまでの解釈を裏づける記事が多くある。まず正月三日条に「かめしゆ、くらむまへまいりて、御とひかき・御みやけしん上申」とあり、亀寿が鞍馬参をして、その御土産を天皇家に進上している。亀寿が鞍馬詣をしていることは前年正月二十一日条の記事にも見える。
 三月十五日条に「かめこ、す[     ]」とある。主語である亀子の後は「す」しか読めないが、そこには「すもししん上申」と入ると考えられる。つまり亀子が鮨(す文字)を進上した記事である。この鮨は、近江名産の鮒鮨であろうか。
 六月二十日条「かめしゆ、御うりしん上申」と、亀寿が近江瓜を進上している記事がある。これは、前述のように近江から毎年進上されている近江瓜のことである。この記事で毎年近江瓜を進上している人物が亀寿であり、彼が近江人であることが再確認できる。
 八月二十日条に「かめ、御下くさしん上申」とあるが、やはり天文六年(一五三七)四月三十日条にも亀が下草を進上している記事があった。

【注】
(3)御内書案。『近江蒲生郡志』五八二号(巻二、五五六頁)。
(4)内閣文庫『朽木家古文書』二三三号・六二八号・六二九号。

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