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zoom RSS 六角亀寿の元服

<<   作成日時 : 2006/02/22 22:29   >>

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 天文十四年(一五四五)には進物の記事は見られないが、亀寿元服の記事がある。それは十二月五日条の「かめしゆ、けんふくにて、すけ殿より二色二かまいる」という記事である。亀寿元服の御礼として典侍が進物をしていることから、典侍が亀寿の母であったことが分かる。天文九年九月八日条に「新大すけさもしの子まいる」という新大典侍の子が参上した記事は、亀寿の記事である可能性もある。これで亀寿の記事が『お湯殿の上の日記』に頻出する理由が理解できる。
 しかし元服以後も亀/亀子として登場する。親しみを込めて幼名を通称のように使用したのだろう。それに対して亀寿と記す記事はなくなる。正式の幼名で呼んでいた者は、亀寿とは関係が疎遠な人物と考えられ、元服後は当然正式の呼び名で呼ぶようになり、幼名では呼ばなくなる。親近な関係にある者のみが、幼名のままで呼ぶことになる。
 天文十五年(一五四六)二月二十七日条に「かめこ、下くさしん上申」、同年十月三日条にも「かめ、御下くさしん上申」と、亀が下草を進上した記事がある。このように元服後も実名ではなく幼名で呼ばれているのは、それだけ亀寿が『お湯殿の上の日記』を書き継いだ典侍たちにとって、身近な人物だったことが分かる。それは何よりも母親が典侍仲間であったためである。
 この天文十五年(一五四六)夏頃から将軍足利義晴は細川晴元と対立した。これは、義晴が細川晴元に替えて細川氏綱を管領にしようとしたためであった。氏綱(高国の妻の甥)は高国の跡目と称して旧高国被官を結集し、さらに河内守護畠山氏とその守護代遊佐長教、紀伊の根来寺衆らが氏綱側に加わった。細川晴元が阿波公方足利義維を支持して堺武家を主催していたとき、近江に逃れていた義晴を支持していたのは管領細川高国であった。義晴は、その高国の後継者氏綱を支持した。
 晴元の被官三好氏の軍勢がつぎつぎと上洛すると、義晴は十一月には勝軍地蔵山に北白川城の築城を始めた。さらに十二月十八日に近江国坂本の日吉神社神官樹下氏邸に入り、翌十九日には嫡子義輝(義藤)の元服式を挙行して、二十日に将軍職を譲った。このとき六角定頼が従四位下に叙位された上で管領代に補任され、加冠役を勤めている(『光源院殿御元服記』)。管領細川氏の分裂の結果、六角氏が管領に列したのである。
 天文十六年(一五四七)三月二十二日条に「かめ、はなの枝しん上申」と、亀が花の枝を進上した記事があり、さらに同年五月三日条「かめ、しやくやくしん上申」と、亀が芍薬の花を進上している記事がある。これ以後、亀は花を進上することが多くなる。
 この年三月義晴は北白川城に入城した。このことは義晴が細川氏綱支持の意思を鮮明にしたことを意味している。これに対して細川晴元は舅六角定頼を説得し、七月に義晴・義輝父子が籠る北白川城を攻めた。同月十九日義晴父子は支えきれず近江坂本に敗走した(『お湯殿の上の日記』)。畠山氏の本拠河内国でも細川晴元の有力被官三好勢が大勝すると、義晴は晴元・定頼と和睦して閏七月一日に帰京した(『厳助往年記』)。
 亀の記事が三月と五月のみでそれ以後見られないことは、これら一連の動きと関係していよう。しかし、このとき亀寿がどのような行動をとったのかは不明である。天皇家への進物が途絶えていることから、在京していなかったことは確かであろう。つぎに亀寿の記事が見られるのは天文十七年(一五四八)二月のことである。
 天文十七年(一五四八)二月二十五日条「かめこ、はなの枝しん上申」、同年二月三十日条に「かめこ、はなの枝しん上申」と、亀子が花の枝を進上した記事がある。この年の二月頃に六角義久が没したと考えられ、亀子の花進上の記事はそのことと関係があるとも思われる。
 この年四月二十二日定頼は、晴元と河内守護代遊佐長教の和睦を調停している(『言継卿記』)。この和談後、三好長慶は遊佐長教の娘を娶った。これで晴元とのライバル細川氏綱の存在は宙に浮いてしまった。しかし今度は三好氏内部で長慶と叔父政長が対立した。細川晴元は政長を深く信用していたため、この対立は晴元と長慶の対立となり、今度は長慶が細川氏綱を擁立した。さらに足利義晴・義輝父子と六角氏もこの対立に巻き込まれた。
 天文十八年(一五四九)四月二十七日条に「かめこ、御あふきしん上申」と、亀子が扇を進上した記事がある。また同年五月八日条に「かめ、かきつはたしん上申」と、亀が杜若を進上した記事がある。しかし六月二十四日摂津江口で三好政長が戦死したため、二十八日細川晴元は足利義晴・義輝(義藤)父子を奉じて六角氏の領国近江に逃亡した。七月九日には三好長慶が、細川氏綱を擁立して入京を果たした(『厳助往年記』)。
 天文十九年(一五五〇)五月四日に足利義晴は逃亡先の近江国穴太で没した。このとき義晴の臨終記である『万松院殿穴太記』が記されている。この年の六月三日条に「かめ、はすしん上申」と、亀が蓮を進上した記事である。蓮の花の進上は、義晴死去と関係があろう。さらに同年六月二十六日条にも「かめこ、はすのはな・はいしん上あり」と蓮の花を進上した記事がある。これが亀寿に関する最後の記事である。
 同年六月九日に足利義輝と細川晴元は京都郊外の中尾城に入城し、七月八日に麓の吉田・浄土寺・北白川に出兵した(『言継卿記』)。このとき六角氏が日本で初めて実戦で鉄砲を使用している(『言継卿記』)。種子島に鉄砲が伝えられた天文十二年(一五四三)のわずか七年後である。近江の国友村は、和泉堺・紀伊根来とともに鉄砲の三大生産地のひとつであり、六角氏が鉄砲に深く興味を示していたことが分かる。十月に三好長慶は六角氏を介して和談を申し込んだが不調に終わり、再び戦闘があって、十一月二十一日に義輝と晴元は近江に逃れた。さらに翌二十年二月十日には近江朽木谷に移っている。
 亀寿の記事が、天文十九年(一五四八)六月二十六日を最後にしているのも、足利義晴と細川晴元が近江に敗走したためだろう。やはり亀寿の記事は六角氏の動向に連動している。亀寿の父は、やはり六角義久であろう。
 また亀寿の母が典侍であったことは、『お湯殿の上の日記』天文十四年(一五四四)十二月五日条で知ることができる。実は幕府関係者と天皇家女房衆との間に交流があったことは、足利義晴の臨終記である『万松院殿穴太記』が内侍司に所蔵されていたことでも分かる。

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