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zoom RSS 六角亀寿の実名

<<   作成日時 : 2006/02/22 22:27   >>

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 天文十四年(一五四五)十二月五日に六角亀寿は元服した。しかし『お湯殿の上の日記』では、元服以後も亀/亀子として登場する。親しみを込めて幼名を通称のように使用したのだろう。そのために六角亀寿の実名は、同書によっては、知ることができない。それだけ同書を書き継いだ人々にとっては、六角亀寿は親近な存在であったことが分かる。そこで、六角亀寿の実名を他の資料から明らかにしてみよう。
 『証如上人日記』(5)天文十年(一五四一)十月五日条には、次のようにある。

  自室町殿就馬進上の儀、被御内書并御太刀(秋光、佐々木四郎
  公能を申て、令進上たるよし候)、拝領候(彼太刀秋光と雖被載面
  候、祐光也、身代五貫金壱両三分)、使三淵殿原之

 当時の慣例では、「佐々木四郎」は六角氏の当主を指す。この公能とあるのが、元服前の六角亀寿の実名と考えられる。
 では元服後はどうだったのだろうか。実は天文十九年(一五五〇)五月と朱書のある土佐光茂『犬追物図』がある。その朱書に「天文十九年五月、大屋形義秀卿依貴命、土佐刑部少輔光茂、江州観音寺御城本丸画之、蒙仰写之御記録蔵入」とあることで、亀寿の元服後の実名が義秀であったことが分かる。
 これまで義秀は、沢田源内によって創造された架空の人物と考えられていた。そのため朱書の真偽が疑われていた。しかし江戸時代に書かれた画史に同じ趣旨の記事があり、また類作の中には土佐光茂原本からの転写の過程をより詳細に示唆する奥書を持つものがあり、さらに天文十九年五月に光茂が近江に滞在していたことを記す文献がある。そのため、朱書を否定することは出来ない(6)。義秀の名が記されているから偽作だというのでは、本末転倒であろう。これは亀寿の実名が義秀であったことを示す絵画史料といえる。
 山中文書を見ても、義秀の諱字を給付されたと考えられる山中半右衛門尉秀俊が登場する(7)。やはり亀寿の元服後の実名は義秀と考えられる。

【注】
(5)『石山本願寺日記』所収。
(6)吉田友之「絵所のゆくえ−−土佐光茂試論」芸術論究1、六九−八八頁、一九七一年。足立啓子「犬追物図屏風定型の成立と展開」(『風俗画−−公武風俗』日本屏風絵集成12、講談社、一一九−二八頁、一九八〇年)。
(7)永禄九年六月七日付山中秀俊田地売券(神宮文庫『山中文書』二三三号)、永禄九年六月九日付山中大和守宛山中秀俊徳政落居契状(神宮文庫『山中文書』二三四号)。

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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
コツコツとよく頑張っておられる様子,
雪国より頼もしく見ております。
さらなる研鑽を祈り上げます。
貴重な本をありがとう。
浩四郎&俊夫
2008/02/15 12:54
哲先生,教えてください。
六角さんというのは先生のご先祖ですか?それとも系譜学の対象として適任者だったのですか?
ごめんなさい,素人で・・・
横手の子
2008/02/15 13:01
わたしは自分の家系には、あまり興味はありません。研究対象として面白いために研究しています。

長応寺所蔵の佐々木系図は近世後期に作成されたものですが、そのままで信用できるものではなく、十分な調査が必要です。しかし、わたしは今のところ調査するつもりはありません。それよりも、戦国期佐々木六角氏の研究の方が面白いからです。わたしの家系については分かっていることは、プロフィールに書いてあることだけです。
佐々木哲
2008/02/16 18:38

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