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zoom RSS 『万松院殿穴太記』作者と六角氏

<<   作成日時 : 2006/02/22 22:26   >>

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 足利義晴の臨終記『万松院殿穴太記』は、十二代将軍足利義晴が天文十八年(一五四九)に近江に逃亡し、翌十九年(一五五〇)に近江で没する最晩年とその葬礼の様子を叙述したものである。『言継卿記』天文二十三年(一五五四)七月九日条に「内侍所へ罷向、穴太記読之、盞有之」とあるように、同書は天皇家の内侍司に収められていた。この記事から同書が天文二十三年(一五五四)までには成立していたことが分かる。また『群書類従』(二十九輯)所収のものは、関白二条晴良が天文十九年(一五五〇)初冬下旬に書写したものである。これらのことから、同書が、義晴が没した天文十九年(一五五〇)五月四日直後の成立であることが確認できる。
 その内容は義晴を中心に当時の幕府の事情を詳細に記したもので、作者が義晴の側近くにいた幕府関係者と分かる。しかも『言継卿記』にも記されているように、同書が内侍司にあった。作者は幕府と天皇家女房衆の両者と親交があった人物である。しかも義晴が没したのは近江国である。一般に『万松院殿穴太記』の作者は不明とされているが、典侍を母に持つ六角亀寿が同書の作者に相応しい。
 同書には、義晴が正室近衛氏(慶寿院)に対して「世の中の後ろ見」になるように遺言した記事など、作者自身が前将軍義晴の側近くにいたのでなければ知り得ない内容が含まれている。御台所慶寿院が将軍義輝を後見していた事実は、現在も一般的には知られていない。しかし将軍本人が発給すべき御内書を慶寿院が発給したことは、上杉文書所収の御内宣旨(8)が、その副状である大覚寺義俊書状(9)によって御内書と称されていることで分かる。この御内宣旨に「い」と署名する人物が慶寿院であることは、専修寺文書所収の慶寿院消息案(10)で「い」と署名する人物が、義晴の猶子であった専修寺堯恵を「われらゆうし」と記していることで明らかである。かつて御内書と呼ばれた六角義久はすでに天文十七年(一五四八)に没しており、このときは義晴の遺言によって慶寿院が御内書の地位にあった。このような義晴の近江亡命政権の内部事情を詳しく知っていたのは、当然義晴に近い人物である。
 このように作者は将軍義晴にごく近い人物であったことは確実であり、また将軍御台慶寿院の実兄前関白近衛稙家と親しく談話しているように、公家とも親交があった。
 実は『万松院殿穴太記』には、作者を特定できる次のような記述がある。故義晴を悼み摂津元造が和歌を詠み、それを聴いた「徳川」があまりの悲しさに耐えきれず和歌を詠んだ。その和歌に唱和して、鹿苑妙安が詩(もちろん漢詩)を朗詠した。その詩の序文で、妙安が徳川のことを「徳川公」と敬称で呼んでいる。このことは注目に値する。まず徳川は、漢詩ではなく和歌を詠んでいるため禅僧ではない。しかも鹿苑院主である妙安がわざわざその歌に唱和して詩を詠んでいるのだから、幕府内での地位は高い。妙安によって「徳川公」と敬称されていることからも、幕府内での地位が相当高かったことが確認できる。しかし、このときまでの記録類に「徳川公」という人物を見つけることができない。そのため他の幕府関係者と同様、義晴死去にともない剃髪して「徳川」と号したと推測できる。このとき剃髪した人物として同書に記述があるのは、摂津元造・三淵晴員・井上貞秀・松田晴秀であり、それぞれ道恕・宗薫・自僧・宗俊と号している。ところが徳川と号した人物のことは何も記されていない。妙安によって「徳川公」と敬称されている人物について、幕府関係者の作者が何ら触れていないのは不自然である。摂津元造の歌を聞いてその悲しさに耐えきれず歌を詠んだという箇所でだけ、何ら前置きもなく登場する。しかも作者はただ「徳川」とのみ記し、「徳川公」と敬称で呼んだりはしない。そのため、徳川公が『万松院殿穴太記』の作者と考えざるをえない。
 また同書にある若公方義輝の歌に唱和して詠まれた漢詩の序文では、義輝のことを殊更「大人相公」と記し、上位の相公であることを強調している。このことから、幕府にもうひとり相公がいたことが分かる。その人物が徳川公であろう。当時、武家で相公と呼ばれうるのは、将軍と江州宰相である。前述のように六角義久は『鹿苑日録』天文五年五月十四日条で「江州宰相」と呼ばれ、またその表紙の頭書で「相公」とも呼ばれている。また『親俊日記』天文十一年(一五四二)九月四日条に「御内書父子へ御剱二振」という記事があるように、義久父子は将軍後見ともいうべき立場にあった。そして、このとき義久の嫡子徳川が相公の地位にあったと考えられる。ただし御内書の地位にあったのは徳川ではなく、義晴の御台慶寿院であった。
 六角氏はもともと近衛家と交流があり、将軍義晴と慶寿院の婚儀も仲介した。『後法興院記』永正元年(一五〇四)三月二十九日条によれば、前関白近衛政家は上洛したばかりの六角氏綱に使者を遣わして太刀を贈っている。さらに同年十一月二十三日条によれば、六角氏綱は近衛政家・尚通父子を訪ねている。これらの記事から近衛家と六角氏との交流の様子が分かる。『万松院殿穴太記』作者と思われる徳川公が六角氏綱の子孫ならば、作者と近衛稙家(尚通嫡子)とが談話していることも十分納得できる。
 また『万松院殿穴太記』の作者の前身が六角亀寿であれば、その母は典侍であり、同書が天皇家内侍司にあったことも十分に納得できる。作者は徳川であり、六角亀寿の成人後の姿と考えられる。
 ところで徳川氏系図について触れている(慶長七年)二月二十日付近衛前久書状に「徳川ハ得川、根本此字にて候。徳之字ハ子細候ての事候」(11)とある。このように家康が新田流得川氏の「得川」ではなく「徳川」の字にこだわったのは、この六角徳川にあやかってのこととも考えられる。

【注】
(8)『大日本古文書』上杉家文書一一一四号・室町将軍家女房消息。『新潟県史』資料編3中世、九三九号。
(9)『大日本古文書』上杉家文書一一一五号・大覚寺門跡義俊書状。『新潟県史』資料編3中世、九四〇号。
(10)『福井県史』資料編2中世、三重県専修寺文書四二号。
(11)将軍家准摂家徳川家系図事東求院殿御書(陽明文庫所蔵)。

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