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zoom RSS 六角亀千代

<<   作成日時 : 2006/02/22 22:23   >>

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 天文二十年(一五五一)六角氏が将軍義輝と三好長慶の和平を斡旋した。翌二十一年(一五五二)一月二日に六角定頼は没するが、和平交渉は続けられて和談が成立した。同月二十三日義輝は朽木を出発し、二十八日には京都の東寺に入った(『言継卿記』『厳助大僧正記』)。細川氏綱が細川氏家督となり、晴元は若狭に出奔した(『言継卿記』)。また三好長慶は将軍御供衆に列し、将軍直臣となった。
 この年、再び六角氏嫡子の幼名を名乗るものが幕府に出仕し、天皇家女房衆に音物を進上する。幕府政所執事である蜷川親俊の日記『親俊日記』天文二十一年(一五五二)七月二十七日条に「亀千世出仕候」とあり、亀千代が幕府に出仕したことが見える。さらに『お湯殿の上の日記』天文二十一年(一五五二)十一月二十七日条に「かめちよかみおきとて、二色一かしん上申」と亀千代髪置の記事があり、亀千代が内侍司に音物を進上したことが見える。髪置は一般的には二歳で行なわれるため、この記事から亀千代が天文二十年(一五五一)生まれと推定できる。ただし六角氏が京都で活動できなかったために御礼が遅れた可能性も有り、生年については即断できない。
 ところが細川晴元方の反攻があり、亀千代が髪置の御礼として内侍司に音物を進上した十一月二十七日に、将軍義輝は京都郊外東山の霊山城に入城した。翌二十二年(一五五三)七月二十八日将軍義輝は細川晴元を赦免して再び長慶と対立した。しかし義輝・晴元は敗走し、翌八月五日再び近江に逃れた(『言継卿記』『厳助往年記』)。しかしその道は難路であったため、同月三十日にようやくと近江朽木にたどり着いている(『厳助往年記』)。義輝は以後永禄元年(一五五八)まで五年にわたって朽木で過ごすことになった。また、これによって京都で三好長慶政権が本格的に始動した。以後、亀千代の記事は見られなくなる。
 このように亀千代の記事は、将軍義輝や六角氏の動向と連動しており、天文二十一年(一五五二)のみに見られる。沙々貴神社本によれば、亀寿だけではなく亀千代も六角氏嫡子の幼名である(政頼・高頼の項)。亀寿の元服は天文十四年(一五四五)であり、亀千代の誕生が同二十年(一五五一)である。亀寿と亀千代は父子として年代がぴったり合う。幕府に出仕する亀千代の髪置の記事が『お湯殿の上の日記』にあるのも、典侍を母にもつ亀寿の子息であったためだろう。
 ところで六角義賢の正室は能登守護畠山義総の娘であり、嫡子義治(義弼)の幼名は亀松丸(12)である。その生年は天文十三年(一五四四)であり、次男高定の生年も同十六年(一五四七)であることから、亀寿・亀千代と同一人物ではない。このように実在が確認されてきた人物に、亀寿・亀千代に相当する人物はいない。六角亀寿の存在を確認できたことは、これまで否定されてきた義実・義秀・義郷の実在を肯定する仮説を構築する上で、非常に大きな意味を持つ。亀寿が江州宰相義久の子息で、亀千代は亀寿の子息であろう。

【注】
(12)『朽木家古文書』二九四号。

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