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zoom RSS 六角義秀と小倉良秀

<<   作成日時 : 2006/02/22 22:22   >>

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 『厳助往年記』天文二十二年(一五五三)八月一日条によれば、将軍義輝の軍勢が松田監物を大将にして東山霊山城に立て籠ったが、このとき松田監物は討死にし、宰相が負傷している。この宰相は徳川公であろうか。そうであれば、こののち義秀が早世した理由も分かる。
 当時、六角氏は京都政界から遠ざかっている。そのため徳川公の動向はまったく分からない。天皇家女房衆に音物を進上することはできない状況にあった。このあいだ六角氏は将軍義輝を擁立して京都を伺っていたが、同時に周辺諸大名との抗争にも巻き込まれていた。斎藤道三に美濃を追われた旧美濃守護土岐頼芸を近江に保護し、北伊勢では伊勢国司北畠氏との抗争が再燃した。
 今堀日吉神社文書には、伊勢在陣中の良秀書状が所収されている。しかし、この良秀は佐々木六角氏ではなく、六角氏被官小倉氏と考えられる。良秀書状には十一月十六日付藤田有久(起左衛門)宛良秀書状(13)と、弘治二年(一五五六)三月十九日付藤田有久(起左衛門尉)宛良秀書状(14)がある。またこれと関連する十二月十六日付四本商人中宛藤田有久書状(15)があり、この藤田有久書状によって良秀の官途名が左近助と分かる。この良秀が小倉氏と分かるのは、十一月十七日付保内商人中申上事書案(16)の六条に「小倉殿」が見え、「一、小倉殿勢州御在国中ニ、荷物共被通候、然共、若他所他国商人荷物ニ相紛、保内へ取候てハ、いかゝと申候て、以一書被究候、其時一書則懸御目候、然間、小倉殿判行次第ニ、其荷物者通し申候、為保内、非進退者様、如此可有候哉事」と前述の弘治二年三月十九日良秀書状に触ているからである。このことで左近助良秀と小倉殿が同一人物であり、良秀は伊勢に在陣していた小倉左近助(左京亮)のことだと分かる。

【注】
(13)『今堀日吉神社文書』七六号・佐々木良秀書状。
(14)『今堀日吉神社文書』七八号・佐々木良秀書状。
(15)『今堀日吉神社文書』六六号・藤田有久書状。
(16)『今堀日吉神社文書』一四四号・保内商人中申上事書案。

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