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zoom RSS 桶狭間の戦いと六角氏

<<   作成日時 : 2006/02/22 22:20   >>

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 弘治三年(一五五七)九月五日に後奈良天皇が没した。このことで、天皇家女房衆が一新した。もはや『お湯殿の上の日記』を記す人々は、亀にとっては疎遠な人々になってしまった。そのため六角氏が京都で活動するようになっても、六角氏に関する記事は少なくなる。
永禄元年(一五五八)五月三日将軍義輝は六角氏の援助で近江坂本に移り、さらに六角氏が将軍義輝と三好長慶の和談を斡旋して、同年十一月二十七日義輝の帰京を実現した。和平を実現した六角義賢は隠居して承禎と名乗った。
 『お湯殿の上の日記』永禄二年(一五五九)五月二十四日条に六角義久の贈官の記事が見える。これは義輝の上奏によるものである。六角氏が復権していることが分かる。織田信長や上杉謙信(当時は長尾景虎)の義輝謁見が実現したのもこの年である。
 永禄三年(一五六〇)五月二十日の桶狭間の戦い(田楽狭間の戦い)で、六角氏が織田信長方に援軍を出して協力したという記事が『江源武鑑』にある。そのときの六角義秀軍功状(17)が『甲賀郡志』に紹介されている。前年信長が上洛した時に密約ができていたのかもしれない。『六角佐々木氏系図略』や沙々貴神社本、さらに『江源武鑑』によれば、この義秀が徳川公に相当する人物である。

  去月八日於清州織田上総介加勢池田前田両将差越處、同十九日
  三尾之境於桶羽佐間為下知、義元四万余騎乗崩之働不可勝計、
  為其賞甲賀之内二千貫之所、別有目録、仰付候上者、専可抽
  忠義者也、仍如件、
    永禄三年六月五日 義秀(花押)
        馬杉丹後守殿

 この書状によれば、永禄三年(一五六〇)の桶狭間の戦いで、義秀は甲賀武士の池田氏や前田氏を織田信長方に派遣している。『江源武鑑』では六角義秀が池田恒興や前田利家を援軍として派遣したと伝えている。たしかに旧家に伝わる義実直状や義秀直状には偽文書と判断されるものが多く、この文書も慎重に真偽を判断する必要がある。しかし偽文書には、すでにあった口頭伝承に形をもたすために作成されたものもある。そのため事実を反映している可能性もあり、偽書として慮外に置くのではなく、口頭伝承として考察する必要がある。この六角義秀軍功状も、そのような資料のひとつであろう。
 人間の思考は完全に自由なものではなく、自らの生活時空間の内にある。そのため意図的に書かれたものにも、事実の断片が入り込むことが多くある。偽文書を読むとき、その偽文書成立の背景や作成意図を読み込むだけではなく、口頭伝承されていた事実の断片を探り当てる読み方も必要である。これは言葉という断片からの口頭伝承のもとになっている過去を再構成するものであり、言葉の考古学と呼ぶことのできるものである。そのため、この文書についても今後十分に検証していく必要がある。

【注】
(17)開田氏所蔵文書。『甲賀郡志』下巻、一一二一頁。

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