修理大夫書状

 葛川明王院文書三十六巻に(年未詳)閏三月十九日付新三郎宛修理大夫書状(18)が残されている。六角佐々木氏系図略や沙々貴神社本をはじめとする系図や軍記物で義秀の官職を修理大夫と伝えており、義秀の書状と見ることができる。修理大夫は参議が兼職することのできる官職であることも、徳川公義秀が修理大夫であったことと矛盾しない。

    又三郎申良薬ともの事、たのミ入申候、
  昨日者光儀千万候、畏悦候、必参上可申候、仍蔵人きうを仕度
  候か、はなふさかりて候て、かろき気かやうに候間の事、不可然
  候、きう哉、はなふさかり(ともくるしかりましく候)哉、内々可得
  御意候由申候、見のけたつやうに候間、きうをさらんする由申候、
  かたく参上候て可申入候也、
       修理大夫
   後三月十九日 敬白
  新三郎殿
     足下

この書状では灸や鼻塞がりに触れられており、また追而書(追伸)で良薬を求めていることから、修理大夫が病気に苦しめられていたことが分かる。これは『江源武鑑』で義秀が病気がちであったとされていることと一致する。前述の『厳助往年記』の記事で宰相が戦傷を負ったとされていることとも関係があろうか。日付けが閏三月となっているが、この頃に閏三月があったのは永正三年(一五〇六)・大永三年(一五二三)・天文十一年(一五四二)・永禄四年(一五六一)・天正八年(一五七五)・慶長三年(一五九八)である。近江の領主で修理大夫という官職をもっていたのは六角義秀のみであり、この書状は彼の活動時期と重なる永禄四年のものと推定できる。六角氏が足利義輝の内意を受けて河内畠山高政と三好包囲網を築いて京都侵攻を開始した年である。

【注】
(18)村山修一編『葛川明王院史料』(吉川弘文館)八三九号。翻刻本で、「いなふさかり」としている個所は「はなふさかり」であろう。

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